cast

矢部伊都子
主人公・大学生

門野康久
友達・大学生

矢部公子
妹・高校生

北出晴彦
妹の彼・高校生




 最近、妹が女としてかわいくなったと思う。姉の私が言うのだからまず間違いはない。
 恋人ができてから、妹は変わったのだと思う。おしゃれに気を遣うようになったとか、そんなことではない。中身から素敵な女に化けていくのだ。男を必要とする女に化けていくのだ。いつまでも年下と思っていた妹が、しっかりとした女になって、それも私以上に生きている女だった。
 だけど、この物語は私、矢部伊都子自身の一つの恋物語である。それも恋になりきれなかった不完全な恋物語。



 大学は日課に過ぎなかった。適当に行って、適当に講義を聴いて、適当にレポートを書いて、適当に単位をもらう。真剣になるのもバカバカしい。どうして、当たった試しのない社会理論を学ばなくてはならないのだ。そんなものは生きてはいない。
 適当にする能力ばかりが養われる大学。勤勉と言うよりは、物好きな学生だけが目を輝かせ、それ以外は酒飲みサークルで適当に男を作って楽しむだけ。私にはそれすらできなくて、ただ適当な毎日に明け暮れるだけ。でも、私はそんな毎日を嫌っているわけでもなく、女友達とだらしなく遊ぶのは大好きで、やっぱり自分は女子大生なんだと思う。その方が生きた心地がする。
 そんな二年に進級した春先のこと、私は一人の男と出会った。宗教学のゼミで、よりにもよって私と同じ書籍から、同じテーマを拾ってきた男、それが彼だった。
 彼の名前は、門野康久と言う。ゼミの初回で自己紹介した時には記憶も残らなかったが、彼の発表を聞いてすぐに覚えた。外見ひょろ長い印象を持つ彼は、発表で前に立つと特に目立った。彼の発表は、本の順序そのままでテーマを解説して、講師が渋そうな顔だけをして、終えようとしていた。悔しかったので私から本には書かれていない質問をぶつけると、彼は案の定口ごもった。
 彼に私は面倒な学生に思われただろうか。ゼミの雰囲気から無難に済まそうという風が吹いていたので、特に目立ってしまったかもしれない。でも、こんな生きていないゼミで何かをしたところで、元から反省するつもりなんてない。
 発表を終えて席に戻る途中、私の横をすれ違いざま、小声で彼は言った。
「酷いなぁ」
 肩をすくめて席に着く彼。それが私にはおかしくてたまらなかった。



 一年我慢したから一人暮らしをと親に願っても、承諾されないのは親の性格を思えば分かっている。そんなお金があればバリ島に行く、私の親はそんな親だ。私のような年頃は、そんなゴージャスで大きな幸せよりも、小さな毎日の方が大切なのに。
 この家には、父、母、私、妹の公子の四人が身を寄せ合って毎日を繰り返している。女三人の屋根の下でも、一番の権力を持っているのは父で、父が言い出した旅行計画を私たちが必死に修正する。父は場所と美味しいものしか言わないから、きっと私たちは成り立っている。その父は今鹿児島は屋久島に行こうとしている。
 日曜日、いつもの遊び友達がバイトを入れたので私は急に暇になった。今日一日不健康にも家で寝て過ごそうと決意する。一人で用もなく出かけるのはもったいない、そう思うのはきっと血のせいだ。
 休日でも両親ともせっせと働きに出ているし、公子は昼過ぎに気づけば消えていた。無意味で有意義な昼下がりを、私はむさぼり続けていた。
 夕方になり、仕方なく買い物に出て家に戻ると、玄関には見たこともない男物のスポーツシューズが混じっていた。居間に誰もいないところを見ると、公子が帰ってきて誰かを連れてきていることになる。
 高校二年生の妹も大人になったなと一人つぶやきながら、買ってきた野菜たちを冷蔵庫に詰めようと開くと、そこには白い箱の先客がいらっしゃった。
 どう見ても、ケーキの箱。また公子が買ってきたに違いないが、中には二つのショートと二つのモンブラン。組み合わせが普通過ぎて、ちょっと笑えた。きっと、後でその友達と食べるのだろう。濃いめの紅茶でも持って行ってあげようか。
 ふと、そのお客さんも夕飯を食べていくのか気になった。時間はすでに五時半だったし、白米すら炊いていない。それは理由で、公子のお客さんの顔が見てみたくなった。
 私と公子は二階に部屋をもらっている。その階段をわざと音を立てて登り、公子の部屋の扉をノックする。待ち構えたように公子が現れた。家の中で外行きの服を着ている。
「なに?」
 無表情に努めた公子が聞いてくる。
「友達?」
「そう」
「男の子の?」
「姉ちゃんうるさい」
 怒った。部屋の中を覗き見ようとするが、半開き以上を許してくれない。
「ご飯どうする? スパゲッティーなら作ろっか?」
 公子は顔だけ部屋の中に向けて、スパゲッティーだけど食べてく?、と聞いている。
「ごちそうになります。いただきます」
 と、その部屋の男の子が声だけで、私に向かって言った。突然だった。
「わかりました。じゃあ、ごゆっくり」
「はい」
 公子ではなく、その男の子が返事した。しっかりしている。
 戻ろうと、階段を下る途中、部屋から公子が出てきて、
「姉ちゃん。冷蔵庫にあるケーキ、食べていいから」
「公子が買ってきたの?」
 顎で部屋を示す。取り繕わなくても良いと、小さく笑って見せる。
「紅茶、持って来ようか」
「あれ、姉ちゃんと、父さん母さんの分。あたしたちもう食べたから」
「あと一個は?」
「あたしの」
 照れ隠しか無表情を貫いていた公子が嬉しそうににんまりする。呆れる。ますます、しっかりと言うよりはちゃっかりした男の子だと思う。
「お礼言っておいて」
「うん」
 それから私は夕日が鋭角に差し込む台所で、一人でコーヒーを入れて、一人でショートケーキをいただいた。箱のラベルを見ると、繁華街にあるお店のケーキだった。少し甘すぎるぐらいが、公子たちには丁度良いのだろう。私には、それは甘すぎた。



 あの門野康久と普通にお話ができるようになったのは、その次のゼミの時である。
「これ、この前の質問の回答」
 いきなり私の隣に座るなり、一枚のコピーを渡してきた。嫌みにも、コピーは私の読んだ本の使おうとしていた箇所のコピーだった。
「馬鹿にしてる?」
「俺が使った範囲がここで、君が使う範囲がここ」
 赤ペンで大きく二つの丸を打つ。あまりにも適当なその行動に、自然と笑みがこぼれる。
「レジュメも作ってよ」
「勘弁」
 またよくわからない肩をすくめるポーズをとる。その愛嬌を、私は好きになった。
 それ以来、門野康久とは友達として普通に話をするようになった。門野とは時々昼食を一緒にしたり、買い物に行く時に付き合ってもらったりした。門野は文句を言いながら付き合ってくれる。時々私も誘われ、文句を言いながらついて行く。でも、特別あう日時を決めて会っていたわけではない。門野のひょろ長い外見は目立ったから、その度に捕まえて付き合ってもらったりしただけ。恋人したいと思うよりは、ずっと気兼ねない友達でいたい、そんな彼だった。
 門野にも恋人がいたのかと言えば、そうではない。同じゼミの古川ってかわいいよなぁ、と私に話を持ちかけてくる。
「あの人のどこがかわいいと思うの」
「声と顔と長い髪」
「素直すぎ」
 そんな会話を繰り返していた。まともに好きになった人がいて、どうにか思いを伝えたいと思っても、そこまでの勇気や根性がなくて、結局遠くから眺めて楽しんでいる、駄目な男だった。
 そういう私も、恋愛事情は門野とそんなに変わらないので、人のことを言えない。お互いたいして生きていない。だからこそ、私と門野は馬があったのかもしれない。あくまで、友達としてだけど。



 家族のせっかくの九州旅行が、行けなくなりそうだった。母親が仕事の都合でどうしても行けなくなったと言うのだ。母親が行かないとなると、父親は自然と行きたがらない。いつまでもそんな両親だった。
 旅行をキャンセルするのも、もったいないと、私は車を運転できる門野を誘ってみた。彼は暇だからとついてくることになった。その事を妹に話すと、妹はこの前の男、北出晴彦を誘うと言い出した。
「変な事しない?」
「変な事しなかったら、逆にがっかりじゃない? でも、晴彦くんならやりかねないな」
 感慨深げに一人で頷く妹、公子。成長したものだと思って、私は反対しなければいけないところを、公子に気圧されてしまった。もちろん両親には、女友達と旅行に行くことになっている。この年で、両親に誰と行くのかを話すのも癪だけど。
「そう言う姉ちゃんは変な事しないの?」
「そんな仲じゃないし」
「ちょっとくらい、しろよ」
 妹は私を指さして、にんまりする。
「このやろー。オトナになっちゃって」
 そんな風に、私たちの九州旅行は決まっていった。
 初めての、家族ではない旅行。そして、公子の彼に、門野の二人の男。今までにない旅行計画に、私は不安を覚えずにはいられなかった。



 福岡空港の国内線は、ガラス張りの開放的な環境で、九州の太陽がすぐさま私たちを包み込む。本州とはやはり空気から違う。それだけで、私の期待は高まった。
 初めてまともに顔を見た、妹の彼、北出晴彦くん。かわいいくらいに背が低くて、私よりも少し低い。飛行機に乗る前も後も、公子の荷物も彼が運んでいた。最初、私の荷物まで運びましょうかと言ってくれる紳士さだ。私の荷物は門野に催促したら、ぶつくさ小言を言いながらも運んでくれた。門野も隅に置けない。
 門野は今日初めて会う私の妹と、その彼に、遠慮するつもりもないらしく、私とのテンションはそのままだった。分かっていたが、とてもマイペースで、彼を選んだのは間違いではなかったと思った。
 結局、バカみたいに不安を感じていたのは私だけのようだった。九州の大地に降り立った時点でもうその不安は消えていた。太陽がまぶしかった。
 父親の名義で借りているレンタカーを受け取るのに、保険関係のいざこざがあったみたいだけど、それを門野は一人でこなしてくれた。
「矢部、後で追加料金」
「はぁい」
 こういう事を今までは父親がしていたのだと思うと、私たちだけのこの旅が、水をかぶったままの新鮮なものに思えてきた。
 真っ白なワゴン車に四人で乗り込み、見た目よりも広く感じる車内に感動して、空港を発った。
 昼は門野が行きたいと言っていた博多ラーメンのお店に行った。店員の愛想はなかったが、チャーシューから麺から全てが洗練されていて、初めてラーメンを旨いと感じた。おいしそうに食べる三人に、門野は満足げだった。
 それからしばらく博多の街を歩く。街にあるお店自体は私たちの街にあるものと変わらない。携帯ショップや、ハンバーガーショップ。だけど、やはり人が違うと思った。表情が違うと思った。門野も、私も、公子も、晴彦くんも、新しい街を歩くのを楽しんでいた。
 面白い発見もある。私たちの感覚では、街はもう暑いくらいなのに、みんな春の装いをしている。場所、気温が違っても、季節は日本全国で共有している。そう考えると、なんだか楽しかった。そのことを門野に話すと、それが日本人の血だと言った。訳が分からない。
 暑いからと公子がコンビニでアイスクリームを買い、周りからしてみれば妙に季節外れに写って、晴彦くんが写真に納めていた。



 私たちは予定通り、船頭を南に向けた。目的地は、九州は鹿児島。日本の沖縄の次の最南端へ向かう。
 運転は門野で、私が助手席でナビゲートする。公子と晴彦くんは後ろの席でのんびりしている。私の後ろに、晴彦くんが乗っている。
 門野が、高速道に乗らなくても良いよなと言うと、自然とそんな雰囲気になった。聞き慣れた名前のショッピングセンターばかりが並ぶ町中を抜けると、一気に私たちの知らない大地になる。
「海岸沿い、行って欲しいな」
 公子が言う。
「そう言うことは早く言いなさい」
 もともと、計画を練っていたのは私たち姉妹なのだ。
「お姉さん、地図貸してもらえます?」
 真後ろから晴彦くんの声がかかる。男の子にしてはほんの少しトーンが高い。その、お姉さん、と言う言葉の真新しさも気になった。私から地図を受け取ると、しばらく眺めた後で、阿蘇のお山も良いですねと、のたまった。公子もそれに頷く。
「夜には、宿には着くだろ」
 門野もその気になっていた。晴彦くんから簡単に道路の説明を受けると、門野はスピードを上げた。
 公子の、破天荒なところも、晴彦くんなら軽くいなして楽しんでくれるかもしれない。公子も、良い人を見つけた物だと思った。



 残念ながら、阿蘇のお山には濃い霧がかかっていた。ほんの数メートル先も見えないほどに。
 山の上の施設で車を降りる。霧はかかっているが、空気はまっさらに澄んでいた。霧を吸い込むように深呼吸をしてみる。門野もまねをする。何も見えないのに、遙かなる広がりをもった世界。それを、私は今吸い込んでいる。
「公子ちゃんたち、先行っちゃったよ」
 門野が促す。私たちも霧の中をずんずんと歩き出す。門野が私の後を付いてくる。その姿は見えないけれど、足音だけが白い空間から響いてくる。
「あの二人って、長いの?」
 門野が、ぬっと現れる。私に追いついてきた。
「知らないけど、あんなに仲良いのが公子にいたんだって、今日知ったものよ」
 ふーん、門野の感想はその程度だ。二人は私たちより先に駆けていった。濃い霧の中を手を繋いで。
 歩いた先には、日本最大のカルデラの火口がある。柵に捕まりながらはしゃぐ我が妹とその彼の姿があった。
 少し霧が晴れてきたと思っては、また霧が濃くなる。その霧が晴れた一瞬に、私は火口の姿を見た。中から煙幕を炊き、霧で爪を隠すように、大きく佇んでいた。そして、漂う硫黄の香り。やはり自然は偉大なものだと感じずにはいられない。
 門野は一人目を細めて、ほー、とだらしなく眺めていた。嫌にそれが公子たちと対照的で、おかしくなって、笑みをこぼしたら、門野も笑った。
「どうして笑うのよ」
「あの二人、面白いなって」
 絶対ごまかしてる。
 晴彦くんはおとなしそうに見えて、意外とやんちゃな様である。柵を乗り越えた公子の手を平気で支えているし、自分も柵を乗り越えてさらに奥をのぞき込もうとしている。門野が羨ましそうにしている気がするが、してやらない。



 阿蘇を下山するころには、すっかり霧が晴れていた。阿蘇のお山には、日本最大のカルデラだけでなく、大小様々なカルデラを見ることができる。まるで小さな隕石が落下したように、小山のてっぺんが凹んでいるのは見ていて面白い。何百年も前にはあの場所は火山口で、地球の中から溢れるものをはき出していたのだろうが、今となっては形のみが残る草原になっている。
 門野は運転に集中していて見られないと嘆くが、晴彦くんは公子とカルデラを写真に納め続けている。
 しばらく来た道を引き返し、予定していた国道3号線を少しそれ、海岸沿いの道を走る。海に出た時は、子供のように感動しておくべきだと思う。私が思わず声を上げ、つられて公子も声を上げる。門野に言って、ドアウィンドウを四つとも開くと、潮の香りを叩きつけられる様に味わって、すぐに閉めた。
 車は軽快に走り続ける。ずっと公子と晴彦くんのおしゃべりが続き、時々私と門野が茶々を入れた。この辺りは商店も少なく、車通りもそんなに激しくない。意外と早く着きそうだと、門野が言った。
 南に行けば行くほど、生えている木々が南国のものに変わっていく。その変化が、同じ日本なのに真新しかった。
 門野を言う通り、日が沈む前には鹿児島県に入った。



 一日目の夜を過ごす宿に着く。私が予約した小さな温泉宿。外観こそしなびた雰囲気があったが、中に入ってみると、きちんと女中さんに迎えられた。なかなかこぢんまりとして、典型的な日本の温泉旅館だった。
 借りたのは四人部屋。四人が寝っ転がって手足を伸ばせるくらいに広く、入るとすぐに門野が畳に大の字になった。
「運転お疲れさま」
「矢部もな」
 門野は腕だけ持ち上げて、グーを作る。私もグーで返す。
 疲れを癒すために、荷物を整理して、すぐに温泉へ向かう。夕食までには少し時間があった。
 お風呂場は、初め人っ子一人いなく、姉妹二人で独占状態だった。私は熱めの露天風呂にずっと入っていたかったが、公子が音を上げて浴室に戻る。浴室は浴室で、丁度良く温度調節された温泉が楽しめる。
 こういう所ではどんなにはしたないと言われようとも、贅沢にため息をつくに限る。
「姉ちゃんも仲良いじゃん」
 だらしなく顎まで湯につかった公子が言う。
「公子ほどじゃ、ないけどね」
 あしらう。もともと門野とはそう言う仲ではない。
「どうなの、姉ちゃんたちはどこまでいったの」
「門野とは、そんな仲じゃないよ。友達」
「嘘。そんな風に見えない」
 公子にはそういう風に写ったのかもしれない。現在進行形で熱愛している公子たちと私たちでは、きっと感じ方が違うのだ。
「でも、姉ちゃん、門野さん好きなんでしょ」
 それに、表現が直接的すぎる。
「うん、好きだよ。愛してるとか言うのとは違うけど」
「愛せないの?」
 元から、そんな感情なんてないのだ。パートナーとしては心強いのは分かっている。
「愛せる、と思うよ。でも、違う。なにお姉ちゃんに言わせるの。公子はどうなのよ」
 公子は嬉しそうににこっと笑った後、私の方を横目で見て、見ての通りと、言った。
「なんだか不思議」
 公子が言い出す。
「晴彦とこんな旅に来てるの。だって、今までずっと家族一緒だったでしょ」
 両親がとても旅好きで、食費を削ってでも国内外に旅行していた。私たちも今までに中国と、イギリスと、インドに出かけている。でも家庭自体がそこまで裕福ではないから、三年に一度の大旅行になる。何年も前から続いている旅行で、毎回毎回感動して帰ってくる両親は凄いと思う。
 その感性は私たちにも確かに受け継がれている。旅好きの血が、私たちにも流れてる。少し空気が、人が、景色が違うだけで、素敵なものに思える。もう、そんな年頃でもないはずなのに。
 そして、今回の旅は、私たち姉妹では初めての、両親のいない旅になった。
「公子は晴彦くんと二人で来たかった?」
「ムリムリ。晴彦じゃ、一緒にいるだけで十分だもん。そんなこと思いつかないよ」
 そう言って照れくさそうに、湯船に口まで沈める公子。
「姉ちゃんは、一人でも旅できそうだよね」
 公子の言う通りだと思った。そこが、私と公子の違うところなのかもしれない。
 公子は、いつの間にか女になっていた。私は、どうなのだろうと、一人ため息を湯煙に隠れてついた。



 部屋に運ばれた夕食は海の幸と山の幸がひしめき合っていた。山菜の揚げ物を美味しいと思ったのは今日が初めてだった。アサリのお味噌汁にこんなに深みがあると知ったのも今日が初めてだった。その欲張りな御膳は、暖かい大地の香りがして、九州に来て本当に良かったと思った。
 公子はどこか物足りなそうに食べていたが、晴彦くんがおいしそうにしているのを見て、笑っていた。その光景が、ほほえましかった。
 門野は頼んだ瓶ビールを、私にも勧め、私があまり乗り気でないのが分かると、一人で飲んでいた。酒が入ると、彼は無口になった。でも、とても愉快なようで、口の端がにやけている。はしたないけど、許せる。
 門野は食べ終わると窓を開け、部屋に涼しさを呼び込んだ。昼間、慣れなかった九州の熱気が、今の時間には静まり冷風となっている。湯気に当たった体を冷ますように、私と門野は窓際の座敷に腰を下ろした。後ろでは公子たちがテレビを見て賑わっている。
 月が出ていた。満月まで数日を残した、十三夜月の頃だった。
「ありがとうな、誘ってくれて」
「門野も運転ありがと」
 しばらく涼んだ後は、私は門野に誘われて、散歩に出ることにした。門野は二時間くらいで戻ると、晴彦くん言い残した。いつの間にか、門野は晴彦くんと仲が良くなったようである。最初は売店のおみやげのコーナーを見て回り、門野は安直なネーミングのお菓子を欲しがった。門野の趣味で、ゲームコーナーを見て回り、その後は外に出てみようと言うことになった。浴衣のまま、流石に下駄は用意されていなかったので靴を履いて出る。外は予想以上に寒かった。
「湯冷めするなよ」
「遅い。十分してる」
 門野は笑う。
 それでも門野は、笑うだけだった。温泉街と言っても、そんなに広く賑やかなわけではない。もう明かりなんて、街灯の細い明かりと、月明かりだけ。ただ、その中を散歩するだけで、特別なことをしているように思えた。
「二人、ほんと仲良いな」
「そうだね。それに、晴彦くんすごくいい子だし。公子にはもったいなく思っちゃうくらい」
 本当だと、笑いあう。
「俺らは、どうなんだろうな」
 つぶやく様に言う。
 あまりにも、告白然としない告白。門野はその言葉を、私に向けてではなく、虚空に向かってはなった。だから、私も、なにもないところに向かって返した。
「ただの、じゃないけど、仲の良い友達だと思うよ。私は門野のこと好きだし」
 門野が笑う、これまで以上に。
「その通り過ぎるから、面白いんだよな。俺も、矢部が好きだ」
 なにがおかしいのか分からない。けれど、私も笑っていた。
「もしさ、門野にも、私にも、相手ができなかったら、私のこと貰ってくれない?」
「いいぜ。俺のことも貰ってくれ。ただし、お互いに結婚できなかったらな」
 大げさに笑いながらの、水の臭いが漂う中での、意味のないプロポーズ。私たちができるのは、ここまでなんだ。所詮は、ただの親友なんだ。
 お互い、本当に正直だったと思う。心底好きなのは分かる。どこか似すぎていて、どこか馬が合いすぎていて、何かを捨ててまで望み愛する対象にはなり得ないのだ。
「これからもよろしく、運転手さん」
「道案内、頼むぜ」
 そろりと、私たちは手を繋いだ。でも、すぐに離れた。私と門野は、この距離が一番居心地が良かった。
 三十分くらい歩いたところで、やっとコンビニを見つけたので、缶コーヒーを買い、引き返すことにした。
「でさぁ、今頃公子ちゃんたちは、よろしくやってるのかな」
 門野が思いついたように言う。
「あっ」
 門野は分かっていたに違いなかった。



 翌日はまず朝からフェリーに乗って、屋久島に向かった。行き着いた先は観光地化されていたが、しばらく歩くと、すぐに大自然の中に放り込まれる。澄み切った空気、昔の人たちは毎日こんな空気を吸って生きていたのだと思うと、感慨深いものがあった。
 公子が縄文杉を見たいと言い出して、晴彦くんが冷静に、入る時間が遅いと言ってくれたが、門野が、走れば間に合うんじゃない?と、後押しした。私は、懐中電灯と虫除けだけは買っていった。公子はお菓子を鞄に詰めていた。
 昼食は買っておいたコンビニおにぎりを分け合って食べた。それから山に入る。道は整備されていたが、道のりは長そうだった。
 結局、登山になった。大のつく自然の中を、小さな四人組が行進する。公子と晴彦くんが前を歩き、私と門野はその後ろをついて行く。私たち姉妹は旅行に慣れているから、旅行の時は運動靴に決まっているのが助かった。
 全く人の音がしない。響くのは川のせせらぎと、葉の擦れるどよめき、甲高い鳥たちのささやき、そして私たちの歩く音だけだった。
「日本じゃないみたい」
 公子が言う。
「日本だけど、タイムスリップしたんだよ」
 晴彦くんは言う。そんな風にとぼけては笑いあう二人は見ていて飽きない。
「門野は山歩きしたことある?」
 こっちも、門野に話しかける。
「ないな。矢部は?」
「あるよ。お父さんに連れられて。でも、ここまで大きな自然に包まれたのは初めてだと思う」
 高く高く、そして広く、そびえ立つ屋久杉たち。ここまでみずみずしく、生きていると思える杉の木を見たことがない。私は感動しっぱなしだった。門野は時々立ち止まっては、大木を眺めていた。門野なりに、楽しんでいるようだった。公子たちはずっとおしゃべりを続けている。
 急な登り道に入る。道は木の板が敷き詰められ、整備されているが、足に応えるには違いなかった。それに、だんだんと寒さが増してきた。すれ違う人々を見送りながら、私たちは山を登り続けた。
 そして、目的の大木にたどり着いた頃には、日は傾き始めていた。
 縄文時代から佇むその大木は、私たちをここまで見守ってくれたかのような、雄大さを誇っていた。わがままに斜面に立ち、そして他の大木のように背高く威張るわけでもなく、どっしりと幹を構え、こぶだらけの表皮も年月を物語っている。中学校の時に歌った、大地讃頌を思い出した。
 ここが、旅の終着点。私はその大木に圧倒されて、魅入られて、動くことができなかった。私の時間なんてかわいく思えるほどに、その杉は意地っ張りな神様の様に思えた。
「来て良かった」
 門野も言う。私は、ただ頷いた。もう他に表現なんてできなかった。
 さすがの公子も、この歩き続けた末の縄文杉に、興奮を隠したりなんかしなかった。晴彦くんと手を取り合って、感動を共有していた。
「早く帰ろう。暗くなる」
 しばらくした後に、最初にそう言ったのは晴彦くんだった。



 下山の苦しみを、改めて味わっていた。すでに暗くなり、大木のおかげで月明かりもあまり入らない中、頼りになるのは一本の懐中電灯だけだった。身を寄せ合って、四人で歩いた。
 仕舞いには、疲れと、空腹と、足の痛みで、真っ暗な中を歩き続けることになった。
「やっぱり、山を甘く見すぎたな」
 門野が言う。公子を後押ししたのは確かに門野だった。
「でも、見て良かったと思うよ。本当に」
 門野は小さく、ありがと、と言った。
 疲れと、不安とに苛まれているのは公子だった。二時間ほど前まではずっと晴彦くんとおしゃべりしていたのに、今は晴彦くんと寄り添って歩くだけだった。
 誰だって不安に思っていないはずはない。人間の息吹のしない純度の高い森の中で、たった一つの明かりだけを持って、ひたすらに一本道を歩き続ける。時折聞こえる動物の鳴き声。もう肌寒いではすまないほどになっている。
 途中で、ついに公子が泣きじゃくり、晴彦くんがずっと、がんばろう、もう少しだと、励ましていた。
 あての見えない暗闇の中を永遠歩き続けていると、だんだんと心が毒に犯されていくかのように、不安で満たされていく。時折響く鳥の声にびくっと体が反応し、風で擦れる木々の音が不気味でならなくなる。私たち四つの足音は未だ止まることなく、ただ山を下っていた。
 突然、後ろ二人の足音が聞こえなくなった。何事かと振り返ると、二人は口づけを交わしていた。
 二人の弱い部分を補うかのように、世界を遮断し感覚を相手に任せるかのように、二人は男と女だった。
 私には、無い、強さだった。
 どうすることもできずに、ただ呆然と立っていると、門野に後ろから抱きしめられる。役不足なのは分かっていたから、私も演じてみせる。門野の腕に手を添える。暖かかった。それでも、ただ暖かいだけだった。
 結局、車を止めた登山口に戻ったのは夜の十一時だった。



 再び福岡空港を訪れる。私たちの旅は終わろうとしていた。
 飛び立つと、九州の大地がだんだんとミニチュアみたいになっていく。また、知らない土地に戻るようで、もの寂しかった。
 公子ははしゃぎ疲れたのか、眠れる場所とあればすぐに眠っていた。車の中でもあれほど眠っていたというのに。それを、晴彦くんが愛おしげに眺めていた。
 門野はずっと窓から外を眺めている。物思いに耽るような表情で、青いだけの空を眺めている。きっと、一人で楽しんでいるのだ。
 だから不意打ちに、私は言ってやった。
「約束、忘れないでね」
「……ああ」
 間があってから、反応した。
「ちゃんと彼氏作れよ」
「門野も、ちゃんと彼女作りなよ」
 この台詞がどこかおかしくて、私が吹き出すと、つられて門野も吹き出した。
「勝負だな。どっちが早く幸せになるか」
 お互いに横目で公子たちを見る。晴彦くんも公子と身を寄せ合って眠っていた。
「勝負だね。でも、約束、忘れないでよね」
「そうだな。お互いに、売れ残ったらな」
 九州の大地でした約束を、また私たちは語り合った。



 私の、恋になりきらなかった恋物語は、今でも続いている。


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