魔法使いの彼女と僕

南 那津  2005/9


 冬の寒さが厳しい日だった。僕の二十歳の誕生日に、摘希(つみき)が手料理をごちそうしてくれるというので、実に楽しみにしていた。摘希の手料理はそれほど珍しい事ではないけど、いつにも増して張り切っていた摘希を見て、楽しみに思わずにはいられないというものだ。
 地下鉄を乗り継いで、摘希の住むマンションへと向かう。地上に出ると、微かに雪がちらついていた。太平洋岸のこの地域では雪が降るのは年に数回のことで、年も明ける前から降り出すのは珍しいことだった。
 だが、ここ数年そんな年が続いていて、うかうかしていられなくなったのも事実。これでまた世界のエネルギーは消費される、寒さが続けばエネルギー消費の割合も増えていく。そんなことを漠然と考えて、一人ため息をつくのが、僕の趣味のようなものだった。
 でも、今はそんなことはどうでも良い。そう思わせる笑顔を僕は手に入れている。
「よう」
 地下鉄から地上に出てのコンビニ。そこで摘希は待っていた。摘希は僕のすぐ前までよってきて、僕の手を掴む。そして、文字通り目の前で微笑んだ。
 摘希の家はそのコンビニから十五分ほど歩いた集合住宅のマンションだった。その間に僕は彼女にどんな料理を作ったのか尋ねたが、今から作るんだよ、と言って他は何も教えてくれなかった。逆に、何が食べたいかと聞かれて、つい豚のショウガ焼きと答えてしまった。摘希は不服そうだったが、僕らしいと言って笑ってくれた。
 マンションの玄関先でお互いの頭の上の雪を払い合い、それからコンクリートの階段に踏み入れる。なんの変哲もないマンションの一室。ただ、ネームプレートに摘希の名前が摘希の字で書かれた一室。鍵をひねると、金属が擦れ合うような大げさな音を立てて扉が開いた。
 初めて入った摘希の部屋。これが摘希の部屋なんだろうなと思った。飾り棚があったり、可愛らしい人形がおいてあったり、観葉植物がさりげなく設置してあったり。
「はい、私の部屋の感想は?」
「予想通りの部屋、かな」
「へぇ。やっぱり君はこういう部屋が好きなんでしょ」
 そう言われるとは心外だが。まぁ、普段を見ててあまり片付けが上手そうじゃないなと思っていたので安心していたのもある。
「さて、君は豚のショウガ焼きを食べたいのだった、よね」
 妙に棘のある言い方に、僕はごめんごめんと平謝る。
 
「実は、私魔法が使えるんだよね」

 なんの冗談だよ、と思っていると、摘希は指を一本立て、お話の中の魔法使いを気取るようにくるりと振った。
 すると、僕が指を見ていた隙に、ちゃぶ台状のテーブルには熱そうに湯気を立てた、さもイメージ通りの豚のショウガ焼きが出現していた。大根おろしも付いている。
「何、何、どうやったの?」
「私、本当に魔法が使えるんです。ほんと」
 もう一度摘希が指を振る。すると、今度はテーブルを見ていたから、そこに忽然と円形のケーキが出現した。まさに、音もなく、出現した。ケーキの上には『誕生日おめでとう』とかかれたチョコプレートに、火の付いた二十本あると思われるろうそくまでもがある。
「凄いなぁ」
「あー、信じてない。本当に魔法が使えるんだってば」
 その次である。彼女が指を振る度に、机の上が彩られていく。淡い桃色のクロスが敷かれ、シャンパンが現れ、なんだかよく分からない間に、部屋の中が彩られていく。しまいに部屋の明かりが消え、部屋に満たされるのは二人の顔を照らすろうそくたちだけとなる。たちまちこう変化したのだ。まるで、テレビでシーンが移り変わったかのように。
 僕は、思わず、唾を、飲み込んでいた。
 急に、音が、消えた、気がした。
 突然摘希が不気味に見えた。
「……本当に手品、じゃなくて」
「そう、手品じゃなくて、魔法、なんだよ」
 その声は、震えていた。
 摘希も、やっと告白できたのだろう。魔法が使えるだなんて、普通隠すに違いないところを、やっと僕に告白したのだろう。それだけ僕を信頼していると言うことであり、そして僕はその信頼に応えねばならないのだろう。
 だけど、すぐ目の前で神秘を見せられたのだとしても、それをすぐに受け入れることは、さすがの僕でもできない。それが、摘希の所行であったとしてもだ。
 でも僕は間抜けにも、質問していた。
「やっぱり、魔法を使うと疲れる?」
「あー、いや、全然。使い放題」
「便利だな、それ」
「便利便利、すごく便利」
 摘希が指を振ると、ケーキが空中に浮き、皿が目線の高さまで持ち上がり、そして回転木馬のようにゆっくりと回り始めた。ぎこちないこの動きに、特に意味はないようだが。
「とりあえず、誕生日おめでとう」
 それでも摘希はにこりと笑ってくれた。『とりあえず』なんて言わせてしまった自分に後悔し、それを忘れようと思いっきり息を吹きかけて火を消した。
 ぱっと明かりがついたかと思うと、天井に所狭しとシャンデリアが付いていた。



 その日から摘希は僕の前でおおっぴらに魔法を使うようになった。魔法が実は手品だったらいいのに、なんて日々思ってしまうが、現実がそれを許してはくれない。
 あれから、僕は頻繁に摘希の部屋を訪れるようになっていた。だらしなく散らかった部屋も、指を一つ振れば元のこざっぱりとした部屋に戻ってしまう。もう驚きはしなくなったが、魔法を見ていて嘆息するようになっていた。
 魔法を見ていて良い気分がしなかったのだ。外はこんなに寒いのに、暖房器具の一つもなく快適なこの部屋が、どうも歪んでさえ見えたのだ。
「なぁ、魔法ってどういう原理なんだ」
「原理って?」
「どんな仕組みって事」
 摘希はさも当然のように指を一本立て、くるくると回転させた。手の中に現れたコッペパンの様なものにぱくっとかぶりつく。
「指を振る。おしまい」
 本当に、摘希にとっての魔法はそれだけなのだろう。指を振れば何でも願いが叶う。全てがそれで片付いてしまう。
「そうじゃなくてだな」
「じゃあ何?」
 僕は考えていた事を言おうか迷ったが、結局言う事にした。
「考えてみろよ。これだけ物を出現させてるだろ。どれだけの質量が現れたと思う?」
「知らないよ」
「どれだけだろうな。でも、質量を出現させるにしても、最も効率的な手段をとったとしてもだ。アインシュタインのエネルギー方程式って習っただろ」
「習って、ないよ」
 既に、きょとんとしている摘希。それに構わず、僕は続ける事にした。
「E=mc2ってやつだよ。あの方程式によって全ての物質はエネルギーで換算できる。だから、ちょっと計算しただけでも、いまやったコッペパンを作るっていう魔法には莫大なエネルギーが」
「これ、あんパン。長いけど」
「そんな事はどうでも良いんだよ。そうだな、日本中の電気代を一時間まかなえるくらいのエネルギーなんだよ、実際は」
 すごいすごい、と言って自分の指を眺める。手の中にコッペパンがまた現れて、今度は中を割って、クリームパン、と見せてくれる。
 脱力。摘希はもちろん文系で、高校の物理すらまともに習ってはいないだろう。
「だから、それだけのエネルギー使うってことは、どこかからエネルギーを抽出してるんじゃないかって事。例えば、摘希の身体の中から何かを奪ってるとか」
「健康だよ。お腹痛くなっても、指振れば直るし」
 埒が明かない。
「そうじゃなけりゃ、どこかからエネルギーを奪ってるって事だろうから、あまり使うのはよした方が良いって事だ」
 表情が険しくなる。魔法を使うな、と言われるのは癪に障るらしい。今までおとぼけから一転、声を張り上げてきた。
「なんで。誰にも迷惑かけてないよ」
「それは、摘希が知らないだけで。誰かに迷惑かけてるかもしれないだろ」
「それは違うと思う。私が魔法使えるだけで、他に変わった事なんてなかったよ」
「今まではな」
 明らかに不機嫌な声で。
「どうしてそう思うかな」
 そう思わずには居られない。僕は普段、エネルギー効率について、研究している人間。そうでなくても、理系だったらエネルギーについて考えてしまうはずなのだ。ただ物をちょっと浮かせるだけでも、効率悪く相当のエネルギーを消費してしまう。摘希の魔法は、その観点からも魔法としか思えない。
 今の世の中、ちょっとした不思議くらいなら科学の力がどうにかしてくれる。宙に浮く事も可能だし、ものを一瞬で消す事も可能と言えば可能なのだ。ただ、それにはちゃんと科学というトリックが存在する。だけれど、今の摘希のやっていることは、イレギュラーとしか言いようがない。
「君の語る科学と、私の魔法はさっぱり違うと思うよ」
「そうだとしても、使うな。生まれたときからこういう生活してきたのか」
「そんなことないよ。結構最近。高校二年生の時に、魔法が使えたらなと思ったら、できた」
 摘希性格から嘘をついているようには思えないし。どうも、納得がいかない、いくはずがない。
「とにかく、月を二つにしようとか、そういう大き過ぎる事だけは願わないでくれ」
「そんなことできるか知らないけど、きっとできると思うけど、誰もそんなこと願わないよ」
 魔法を知ってから、会う事は多くなったけど、口喧嘩も多くなっていた。魔法以外のことでけんかする事もある。それでも摘希は魔法を使うのを止めなかったし、逐一僕も反応していた。



 摘希の偉いと思っていたところは、それでも大学に通い続け、そしてバイトも続けていたことだった。魔法が使える彼女にとって手に入らないものは、人とのつながりだけだったのだろう。
 正月を迎えてから、僕は摘希とは外で会うことにしている。摘希も魔法を使われると僕が嫌がることを理解したのか、外では魔法を使うこともなく、普通の彼氏と彼女でいられている。摘希が魔法使いであることを忘れられる瞬間が多々あって嬉しかった。
 別に魔法が嫌いなわけではない。ただ、そんなものを何も知らずに使い続けていることが怖かっただけなのかもしれない。もしくは、大量のエネルギーが孕んだ可能性に僕が恐れをなしているだけかもしれない。もし摘希の言うとおり、一つのエネルギーの消費もなく使えるのであれば、摘希自身がエネルギーを発生させることができるならば、なんとすばらしいことであろう。これで世界のエネルギー問題は瞬時に解決する。だが、それにすがることができないことは、僕が一番知っているつもりなのだ。
 もし、例えば月を二つにしたい、と言うような莫大なエネルギーを摘希が召喚すればどうなるだろう。そうなれば物理(せかい)が黙っていてはくれない。天文学的な値で、今のバランスが崩されれば、いとも簡単に地球は滅びるだろう。
 摘希にはそこまでの考えはないに決まっている。例えば、月が二つあったら綺麗だから、それだけの理由で、原理も分からない方法で月を召喚させれば、引力の影響で地球は簡単に氷河期を迎えてしまう。そう考えただけでも恐ろしくて仕方がないのだ。
 でも摘希はたくさんの身近な人を救っていた。摘希が「いたいいたいの飛んでけ〜」と言えば冗談なく痛みはなくなっていくし、摘希が指を振れば僕の車のへこみは元に戻り、友達の風邪はたちまちに回復し、ダイエットにも成功する。僕の問題はさておいて、誰もそれが摘希の魔法だなんて分からないように、摘希は魔法を使っていた。それが摘希のポリシィの様だった。決して頼られたくはない、自分から救っていきたい、そう摘希が漏らしていたのを僕は覚えている。
 この冬で二度目の雪に見舞われた頃、僕と摘希は繁華街をいつものようにぶらついていた。もう歩き尽くした感のある街並みも、雪を被ればそれなりに違って見えるから面白い。
「たこ焼き買って」
 息を白くした摘希がせき立ててくる。商店街の一角にあるお店。さすがの日曜日で、結構な人が並んでいた。みな並びながら、温かいたこ焼きを口に入れる瞬間を待ち遠しくしているのだろう。一人、寒がらない摘希を除いてだが。
「たこ焼きは、たことソースどっちが醍醐味だと思う」
「そこは両方あるから良いんだろ」
「それもそうか」
 なんでもない会話。だけど決して摘希は「寒いね」とは言わない。「寒そうだね」と言うことはあっても。
 だんだんと前に進むにつれて、口の中は唾液で満たされていく。やっと順番になった頃には、目の前で焼かれていくのを見るのが実に愉快で、その手さばきに寒さを忘れて熱いと思える。僕はこの時が好きだった。
 摘希と一つの入れ物を持ち合いながら、お互いに数を決めて口の中に納めていく。八つなどすぐになくなり、また口の中の暖かさが恋しくなってくる。
「もう一つ要る?」
 なんの気なく摘希が言ってくる。摘希にかかれば、お腹いっぱいのたこ焼きを用意する事なんてなんでもないのだ。
「いや、いいよ」
「そう」
 これもいつもの会話だった。
 しばらく商店街を歩いて、いつものようにウィンドウショッピングに興じて、僕一人寒がりながら歩いていた。そのときだった。
「ちょっとごめん」
 突然摘希がそういって僕から離れて、角を曲がる。
 初めはトイレかなと思った。でも、その回数が結構頻繁で、しかもコンビニの方向に向かっているわけではない。どちらかと言えば、路地に入るような方向に。毎回三分くらいすれば戻ってくるのだけど。
「何、してんだ?」
 もう三、四回目と言うときに、ついに僕は尋ねた。摘希は言葉に詰まったようで、それでも僕の方を向いて。
「怒らない?」
「時と場合による。さては魔法だな」
「……野良が寒がっていたんだよ」
 要するに、冬になって生活に困ってる野良犬野良猫を救っていたと。
「確かにかわいそうだと思うのは自由だけどな、やりすぎるなよ」
「なんでさ!」
 強く食いかかってきた。
「だって目の前で死にそうでかわいそうな生き物が居るんだよ。ほっとける? それに私は救えるんだよ」
 僕を見つめる、摘希の非難の目。
 ああ、そういう目を向けないでほしい。
 分かってきた、だんだんと分かってきた。摘希は自分が救える事を理解してしまったのだ。そして摘希は今、それを目指しつつあるのだ。
「わかったよ」
 呆れの混じった僕のこの答えでも、摘希は満足したようだ。再び二人で歩き出す。そこで突然、
「私の魔法ってさ、なんのためにあるんだろうね?」
 と振ってきた。
 僕はまじめに答えてしまった。
「そんな生物学的な思考、したことなかったな」
 完全に呆れた口調で。
「夢のない奴」
「悪かったな」
 悪態を付くに留める。
「私はね、なにか私にはやらなきゃいけないことがある気がするんだ」
 僕を尻目に摘希は続ける。
「私には救える命がいっぱいある。最後には、すっごく大きな事をしなきゃいけないのかもしれない。今はその前触れなんだよ、きっと」
 僕はつい、とうとう来たか、と思ってしまった。いつか摘希がこう考えることは明白で、だからこそ僕はこういうのだ。
「そんなことはない。摘希は今の摘希のままで良いんだよ」
 摘希が不服そうにするのは分かっている。
「夢がないね」
「摘希の夢が大きすぎるんだよ」



 摘希が運命と言う気分に毒されてきているのはよく分かった。そして決定的な事件は起こってしまったのだ。
 それは、摘希の父親が一度交通事故死をしてしまった時のこと。摘希の父は市役所の職員で、まだ五十に満たない。不運としか言いようがない、飛び出したバイクを避けようとしたところ、大型トラックに正面衝突したのだ。大型トラックの運転手は軽い打撲程度で済んだが、軽を運転していた摘希の父親は胸部強打、臓器の圧迫による破裂と内出血、それが死に繋がった。
 それを摘希からメールで知り、僕は遅れて特急に乗り込み、摘希の故郷へと向かった。
 そのときから一抹の不安があって、僕は買った駅弁も食べる気にはならなかった。一筋縄ではいかない、なぜかそんな思いが僕の中にはあった。その思いだけで一人向かっていた。
 摘希の故郷は最近町から市になったような、それほども発展していない普通の町であった。まだ多くの田舎道が残る。ただ僕は摘希から聞いた時間と場所をタクシーの運転手に告げ、淡々と近づいていった。
 葬儀場では、突然の死に誰もが悲しんでいた。それは摘希も同様で、摘希は僕を見つけるとすぐに僕の胸で泣いた。僕は素直に悲しみを共有してやりたかったが、まだ僕には何か起こるだろうという不安が残っていた。葬式で何が起こると言うんだ、そう何度も言い聞かせながら、僕は葬儀の列に加わった。
 一通りの読経を終え、御遺体が霊柩車に積まれようとしているそのとき、事件は起こった。棺桶のふたを自分で開けて、摘希の父親が現れたのだ。朝に起きるときのように眠そうにしながら、それでも元気な姿を、参列者全員に見せつけたのだ。
 これはもちろん摘希が行ったのだという事は分かっている。気づけば、摘希は父親との再会を待たずして、葬儀場から消えていた。最近、摘希は瞬間移動も覚えたようだった。
 この一騒動は単なる地方ニュースとして報道される程度にとどまってくれた。医者は真っ青だったに違いないが。
 そこで、摘希の母親に出会った。息を吹き返した伴侶に疑問を抱くことなく、ただ良かった良かったと涙しながら抱き合っていた。僕が摘希さんはどこかと尋ねると、さぁどこだろうね、と気のない返事を返した。最近、ふらっと実家に帰っては出て行くことが多くなったという。街で何かあったのかと僕に聞かれたけど、僕は安心してくださいとだけ答えた。
「摘希をよろしくお願いします」
 と、改めて言われて、僕は気恥ずかしかった。摘希の父親に何があったのか尋ねても、事故に遭ったのは覚えていてるが、気がついたら棺桶の中だったというだけだった。どうやら、摘希は父親似らしく、明るくすぐに社会復帰できそうな人だった。それから一日も待たずして摘希の父親は職場復帰を果たした。見方によっては、かなり滑稽な話である。
 そして僕が驚いたもう一つの事項。摘希の両親は摘希の魔法のことを知らないと言うことだった。摘希の性格上、高校生の時なのだから両親に話さないと言うことはまずないだろう。だとすれば、魔法の力で両親に忘れさせたのか。いつか僕も、魔法のことを忘れ去られるのではと、心配せずにいられないまま、また一人特急に乗った。
 街に帰ってきて、すっかり積もった雪に驚きを覚える。もう夜十時を回っている。地下鉄を乗り継いで帰ると、鍵がかかっているはずの僕の部屋の暗がりに、摘希は居た。
「おかえり」
 電気をつける。摘希はそれでも動くことなく、ただうなだれている。
「やっぱり、摘希のせい、なのか」
 ゆっくりと首を縦に振る。
「素直に喜んでいようものなら、僕が叱るところだからな。まぁ、反省してくれ」
「薄情者!」
 声を張り上げる摘希。その声には涙が混じっていた。
「私は良いことをしたんだよ。お父さんを助けるって、良い事したはずなんだよ。ねぇ、褒めてよ」
 濁された声。自分でも自分を褒めることができないで居るから、褒めることができるだけの思い切りを持っていないから。僕だって、このことが良いことなのか、悪いことなのかも分からない。
「とにかく、もう人を甦らせるようなことはするなよ」
「なんでさ」
 ぐしゃぐしゃの表情のまま、詰め寄ってきた。
「私は全然悪い事してない。これでみんなを幸せにしたんだよ。お父さんまだ四十八だから、寿命にはまだまだ遠いし。生きてる方が普通なんだよ」
「そういう事じゃないんだよ」
「どういう事なの! お父さんに死ねっていうの! 自然に逆らうことがそんなに悪いことなの! ねぇ、魔法ってそんなに悪いことなの!」
 摘希も僕も、どこか混乱していた。この異常すぎる事態に混乱していた。僕も持ち前の自然観を持ち出さず、ただ摘希を強く抱きしめた。そうしていることでしか、今お互いを認め合うことはできない。言葉に出せば、お互いが傷つけ合うだけだったから。
 それから、僕と摘希は父親の一件について話すことはなくなっていた。



 父親が甦ってからと言うもの、摘希はどこか空元気であった様に思える。瞬間移動を覚えたのもあって、よく外国に行ってきた話をする。この前はオランダに行ってきたと言い、言葉も魔法でどうにかなるというのだから、桁がずれている。
 安心していることは、まだ、摘希は自分のために魔法を使っている。摘希の趣味の旅行の範疇に過ぎない。だから僕はそんなに厳しく言わなかった。
 それと、家に帰ってくると摘希という先客がいることも多くなった。既にそれに驚くこともなく、もう慣れてしまっていた。ただ摘希は、旅行を楽しかったこととして話したいだけなんだ。僕に魔法を認めて欲しいとか、そんなんじゃなくて、ただ自分の話す事にうなずいて欲しい、ただそれだけなんだ。
 無理をしている、摘希は。自分の可能性を知りながら、その重圧に耐えながら、認めてもらっていないことを知りながら。それに必死に耐えて、ただ旅行という形で消化し続けてくれている。
 だから僕も、それに答え続けねばならなかった。怒ることもなく、認めることもなく。摘希をかわいそうなんて思ったことはないけど、心の片隅では不憫だなと思っていたに違いない。
「最近、元気ないんじゃない」
 冬も峠を越した頃だった。摘希がいれば、相も変わらず、暖房器具は飾りになる。そういう摘希自身も、元気そうには見えない。
「そうかもしれないな」
 嘆息気味に声を発する。
「ねぇ、君も一緒にオランダ行こうよ。今度の土日にさ」
 誘われたのも初めてじゃない、こういうとき僕は決まって。
「ごめん、断っておくよ。ほんとごめん」
 摘希も期待していなかったのか、一つため息をつくだけだった。
「強情だね」
「あぁ、強情だ」
 そういわれても構わない。それが僕のやり方だと思っているから。
 摘希は一通り話し終えると、テレビを付ける。リモコンを探す動作が妙にわざとらしく思えてくる。そう思うなんて、僕も重傷だなと思う。
 初めに写った番組はなんでもないお笑いで、無責任に二人で笑えるから良かった。無条件に気分は良くなっていく。摘希がペットボトルを用意して飲んでいたから、僕もそれをもらうことにした。
 次に写ったのは、最悪だった。戦災孤児は可哀想だと告げるドキュメンタリー番組。摘希の横顔を伺うと、ぼぉっと、その光景を見つめていた、ぽかんと口を開けたまま。
 僕もつい、漏らしてしまう。
「早まるんじゃない、な」
 言葉の意味は摘希も理解しているようで、少しうつむき加減になる。
「何を、よ」
 返す言葉もなく。そこで言葉はとぎれてしまった。幼い子供たちが、地雷で、疫病で、飢えで、そして人の手で、殺されている実情を映像とともに淡々と報告する。そのあまりにも無感情に写し続けるその有様は、やるせない思いをかき立てる。
「私、考えたんだ」
 ふと、つぶやくように。
「私には救える。この魔法があるから救える。簡単だよ」
「やらなくていい」
「なんで。君はどうしてそんなに薄情なのよ。今こうして苦しんでいる人を見たでしょ、可哀想だと思わないの。私にはできるんだよ。なのにしないなんて、私にはできないよ」
「摘希は摘希のままでいい」
 お互い言葉が強くなる。
「分からないよ。私は私でいたいから、したいんだよ。自分が役に立ちたいんだよ。そう願うことが悪いことなの」
「悪い事じゃない。……魔法じゃなければ」
 魔法という言葉に摘希は敏感に反応する。
「魔法魔法って、そんなに魔法がいけないの。何が、分からない。素敵じゃない、どんな願いも叶うんだよ。それの何がいけないの」
「摘希は分かってない。因果はあるんだ。自由に魔法が使えるからって、それじゃ世界のバランスが狂ってくる。物理に支配されてるからこそ、世界は保っているんだよ」
「魔法を分かってないのは君の方じゃない。科学科学で頭が固くなってるから、そんなことしか考えられないんだよ」
 これにはカチンときた。
「そんな事しかってなんだよ。僕だって毎日毎日研究してるんだよ。僕らの世界には魔法なんて便利なものはないから、一個一個理論立てて、工業化して、それで今の生活が便利になってるんだろ。それはそういう基礎があって、信頼して使っているから。なのに摘希の魔法はだな」
「もう、知らない。勝手にするよ」
「あぁ分かってない。それが勝手なんだと言ってるんだ。物理もわかってないくせに」

 ……。

 言葉は返ってこなかった。気づいた頃には、摘希の姿はなかった。音もなく瞬間移動したのだろう。全く、便利なものだ。
 部屋が寒さを取り戻し始める。あんなに熱くなっていたのに、身体が寒さを訴え始める。ストーブのスイッチを入れる。にもかかわらず急激に部屋は寒くなり、セーターを取りに行く羽目になった。
「やってしまったな」
 虚空につぶやいてしまう。



 僕に摘希を追う手段なんてなかった。今摘希はどうしているのだろう。大学に来ているかも分からない。もともと摘希とは学部も違うから、大学内で会うこともない。全く摘希の声も聞かずに過ごすなんて久しぶりだった。
 季節はまだ冬を残していた。春一番が吹いたかと思えば、数日はまだ寒さが残る。そんな頃合いだった。大学では試験が始まり、僕は摘希のことを忘れてそれに没頭しなければならなかった。
 摘希が消えてから一ヶ月が経とうという頃。それでも、僕は毎週のように摘希のマンションの戸を叩いていた。相も変わらず、居ない。それでも郵便物がちゃんと無くなっているところを見ると、摘希は帰ってきているのだろう。きっと講義にも出席している。そう思うことにした。
 摘希の事で堂々巡りな思考を展開し続けて、試験勉強にも熱が入らなかったとき、郵便物が無くなっているならと、手紙を書いてやろうかと思った。帰っているかの確認のついでに、郵便受けに直接入れに行けばいい。もし返事が返ってこなければ、もう摘希について考えるのは止めようと思った。
 よし書こうと、机に広げた便箋。改めて、手紙を書くなんて何年ぶりだろうと思いながら、まず『摘希へ』と綴った。
 最初、僕の考えていることを、摘希にもわかりやすいように多くの解説を加えながら書き連ねていた。エネルギーのこと、物理のこと、魔法のこと……。書いているうちに便箋の枚数は五枚に及んでいた。書き終えたところで改めて見直してみると、なんだか馬鹿らしくなってきた。こんな事を摘希は期待していないんだ。ためらいはあったが、破り捨てた。
 改めて『摘希へ』と綴り、何を書こうかずいぶん迷った。結局、二言だけ。

 摘希へ
 僕は摘希を信じているけど、無茶はしないように。
 何をしているか教えてください。返事待ってます。

 その日の夜に摘希のマンションを訪ね、案の定居なくて、郵便受けに入れておいた。これで返事が帰ってこなかったら、摘希と魔法のことは忘れよう。そうさ、摘希はやろうと思えば僕から魔法で記憶を消すことだってできるはずだ。僕はまだ平常だから、きっと大丈夫だ。
 返事は意外と早く返ってきた。もちろん切手なんか貼って無くて、写真も一緒に入っていた。
 しかし内容は少々強烈なものだった。砂漠を森にしてきたとか、枯れた川に水を流してきたとか、まさに神懸かりな事。それをこなしてきたと、写真付きで告げてきた。読んでいるだけでどきっとしたが、お試しに少しだけと添えられていた。僕の話を少し考えながらも、いつかは大きな事をすると言う摘希の意志が見えていて正直怖かった。
 僕にいわせれば、神懸かり的なことをして世界を壊しつつある。摘希にいわせれば、神懸かり的なことをして世界を救っている。お互いがどうしても譲れない点ではあった。僕が杞憂に過ぎないのか、摘希が羽目を外しすぎているのか。
 僕は二通目の手紙に着手した。今度はちょっときつめに話を書いた。そうしないと進展がないと思ったからだ。そして最後に、『体調には気をつけて下さい』とよそよそしく書いた。これが僕の精一杯だった。
 一体摘希は何をしているのか。父親の騒動の時のように何か騒ぎになっていないか、新聞くらいは見張り続けた。今日も何事もなかったなとため息をつく日々を送っていた。
 二通目の摘希からの手紙。戦災孤児と実際に会ってきたと書いてあった。病気を治し、栄養を付けさせ、家を建ててあげた。まだ青年海外協力隊や国際連合が遅れている地域で、ひっそりと人々を救っていると書いてあった。多くの人々に感謝されたと。
 そして、私は神の子なのかもしれないとも、書いてあった。
 手紙には、僕の言った件については『考えすぎだよ』、としか書かれていなかった。ちょっとだけ、寂しかった。けど、摘希が元気そうで良かったと思っている、事にしている。
 そして最後に、

 私の魔法なら、人を殺すも生かすも自由なんだよね。

 と、さらりと冗談めかして書かれていた。



 摘希が帰ってきたのは突然だった。
 やっと今日のアルバイトを終えたと開放感に浸っていた、そのときだった。僕の部屋の鍵は開いていて、明かりもついていて、そこに摘希が居た。実に二ヶ月ぶりの再会であるが、そんな気はしなかった。
 テレビを見ていた摘希が振り返る。
「摘希、おかえり」
 つい、そう口走る。
「ただいま。ちゃんと大学には行ってたよ。それに今帰ってきたのは君の方。おかえり」
「ただいま」
 自分の部屋に居心地の悪さを覚えながら、入り込む。摘希が指を振りテレビの画面を消し、一気に部屋が静かになる。僕はテレビの前、摘希と対面する場所に腰を下ろした。
 お互い、第一声が見つからなかった。いつもなら視線が絡み合うのに、今日は合わせにくかった。そのまま、音もないままに時間が過ぎていきそうだったから、僕はとりあえず声を発する。
「楽しかったか」
「うん、楽しかった。みんな、感謝してくれたんだよ。救世主様だって」
「救世主、か」
 救世主様とは、大層な。多くの人に感謝され、救世主とさえあがめられて、あわてふためく摘希を想像してしまい、僕は笑わずにはいられなかった。
「なんで笑う!」
「いいじゃん。救世主ごっこしてきたんだろ。さぁ皆の衆、水を与えようぞ!って」
「そんな感じじゃないよ。もっと普通、普通だよ」
 取り乱す摘希を見るのも久々だ。
「どうだか。自分では普通と思ってるだけで、そうなっちゃったりするんじゃないのか。なにせ、救世主様だもんな」
「そんなことないよ。みんなが寝てる間に、川に水引いたり、どうしようか結構考えたんだよ」
 必死になって反論する摘希。妙にこの感覚が懐かしく思えて。
「で、その救世主ごっこも、もうお終いなのか」
 つい、おどけた感じで真剣なことも言ってしまう。
「違う。まだ続けるよ。私に救える人たちがまだいっぱい居るよ。止められない」
 そう言うだろうと分かっていた。
「でもね、私も失敗したんだよ。川に水入れたら、一晩でかれちゃったり、地面がすぐにぬかるんで通れなくなって、逆に邪魔しちゃったりとか。みんなに食べ物配ったんだけど、お偉いさんって言うのかな、その人が、もう俺の土地でそんな事するな、だって。難しいね」
 それを語る摘希は、どことなく自信にあふれているように思えた。この二ヶ月は摘希にとっても大きなものだったんだろう。自分の魔法がどれだけ通用するのか、なんのためになるのか、ずっと悩んで、今があるのだろう。
「いろいろ、あったんだ」
「そう、いろいろ、とね。楽しいことだけじゃなかったよ。私を殺して食べ物を奪おうとした人だっていたんだよ。初めて銃向けられたよ」
 逞しい話になってきた。
「君だから話すね。しかもそれ、私より小さい、高校生くらいの男の子だったんだよ。びっくりしたよ、でも、そのとき凄くむかついたんだ。私、生かす事もできれば逆に殺すこともできるんだよね」
 わざとここで話を止める。僕もつばを飲み込んでしまう。
「だから、その銃を向けてきた男の子をね」

殺さなかったんだろ。で、記憶を消した」

 僕が言葉を重ねた。優しく言う努力をして。摘希は初め驚いたような顔をしていた。だけど、それから僕の方を向いて笑った。

違うよ殺しちゃったんだ

 そのままの笑顔で、今は不気味とさえ思えるその笑顔で、そう言い放った。
「でも、私とても後悔した、後悔したんだよ。もうそのとき、動転してたから、つい、殺したというか、消しちゃったんだ。ま、たくさんあったんだよ」
 話し終えた摘希は満足そうだった。
「まだ、続けるんだよな」
「そうだね、これで終えるわけにはいかないから。せっかくの魔法だからね」
 せっかくの魔法、そう理解してきたのだろう。今までは『私の魔法』と言い続けてきた摘希、今日そう言わなくなった。確かに摘希は成長している。
 そうやって、健気にも、自分を信じて、僕にもあまり信用されないで、孤独で、それでも続けてきた。結局は姿形だけでなく、中身も僕の知っている摘希だったのだ。僕は素直に、言うことができた。
「お疲れ様」
 摘希はわざとらしく大きくため息をついた。
「お疲れです」



 しばらく摘希は僕の所にいるようだ。でも僕は僕でアルバイトに精を出しているのが、どうも不服らしかった。もうすぐ摘希の誕生日な事もあって、早急にお金を稼いでおきたかったのだ。
 摘希は相も変わらず、日本で遊んで暮らしていた。摘希にとってお金はただの紙に等しいから、いつまでも気ままに遊んでいられる。大層なご身分だ。この前、自分が経済学部じゃなくて良かったと本気で安心していた。
 そして迎えた摘希の誕生日。摘希を僕の部屋に呼んで、今日は摘希に魔法を使わせないという決まりで、摘希の世話をしていた。要するに、僕の意地だったのだが。
 全て自分で買ってきた材料で、一から料理を作る。と言ってもたいしたものは作れない。ちょっと春先には時期遅れかもしれないシチューを用意している。
「料理って大変なんだね」
 苦労知らずの摘希が背後から興味深げに声をかけている。ずっとテレビを見ていたのだが、暇になったようだ。
「ただの人間に対する当てつけか?」
 あくまで冗談めかせた口調で、半ば本気で。
「違う違う。あっちの方はもっと大変そうだったよ。だって、火がないんだよ、火が」
 それでもこの苦労と楽しみを知っているわけではない。僕の心の友は科学だ。
 摘希が手伝いたいと言い出しても、駄目と言ってずっと座らせていた。仕方なく見ていたテレビも飽きて、僕へのちょっかいも通用しないと知ってか、僕の部屋をまさぐり始めたようだ。ここで気にしてはいけない。どうやら、懐かしの携帯ゲーム機をどこからか見つけて、それで遊んでいるようだったので、良しとしよう。
 できあがったシチューとサラダボウルと、パンをテーブルに並べる。この日のためにわざわざシチュー用の皿とスプーンも買ってきたのだ。パンも、わざわざ繁華街のおいしいと聞いた店で買ってきた。もちろんケーキだって用意してある。
 とにかく、今日は僕の意地を見せる日だった。ついでに言えば、ちょっとくらい科学について語りたかったが、引かれる事は目に見えている。
 改めて、お互いに机を挟んで向かい合って。
「二十歳の誕生日おめでとう」
「ありがとう。じゃ、いただきます」
 僕の意地を、摘希は口にした。食べている摘希を見ているだけで僕は幸せになれた。
 冗談めかした話をしながら、食事は進んでいく。今日は魔法使いと告白する前までの、摘希と僕だった。もしかしたら、僕はあの頃に戻りたいのかもしれない。
 でも、今は違う。今の摘希と対峙することが、僕の仕事なんだ。そう考える。摘希が世界を壊そうとしている、僕にはそう感じるから、僕は止めなければいけない。それが、どんな世界であっても、今を失ったとしても。摘希が引き金になることだけは避けなければならない。
 そんな話は摘希には結局できず、ただ楽しくおしゃべりしていることが、貴重に思えて、ついそれに興じてしまう。ただ摘希が好きだった、あの頃のように。
 食事を終えてケーキも食べ終え、僕が洗い物の面倒を考えていたとき、不意打ちだった。

「でね、もしかしたら、君と会うのは最後かもしれない

 突然、摘希が切り出した。一瞬世界が凍り付いたような気がした。笑っていた摘希の瞳はいつの間にか、真剣な眼差しへと変わっていた。
「どういう事だよ」
 僕も、分かってはいたんだ。今日のうちに、結論を出さなくちゃいけないことくらい。
「分かってるくせに。私は、これからも人を救い続けたいんだよ。自分にできることを続けていきたい。それが私の運命とか、そんなことはもう考えないよ。ただ、今の私がしたいことがそれなんだ。もし、君がそれを拒むんだったら、私はもう君の前には現れないよ」
 一気に言い放った。その目は鋭く僕を見据えていた。

君は、私を応援してくれるんだよね

 当たり前だ、その言葉が喉まで出かかった。そう知れば摘希は喜ぶだろう。さらに人を幸せにし、世界にはびこる様々な難問をいともあっさりと解決するだろう。そんな未来が、見えた気がした。僕の考えていることなんて結局杞憂にしか過ぎなくて。全て摘希の方が正しくて。
 しばらく喋れなかった。ずっと摘希の目を見つめ、摘希も僕の目を見つめていた。僕のこの一つの言動が世界の未来さえも変えてしまう気がして。僕が正しければ、摘希は世界を壊してしまう。それをどうしても引き留めたい。だけど、そんなことよりも摘希と一緒にいたい、そんな気持ちもある。
 だけどその状態にくらくらしていたんじゃない。もう、その覚悟はできていたんだ。ただ、摘希の真摯な瞳に、声が出なかっただけなんだ。
 摘希が期待している答えは分かっている。摘希も僕が出す答えは分かっている。それがどんな結果を招くかも分かっている。それでも摘希は、この質問をしたんだ。だからこそ、僕は言葉を返さなければならない。
 そして、僕は一つの言葉を紡ぎ出した。

「戻ってきてくれ」

 僕の口から自然と飛び出た言葉。それに摘希の表情は陰ることなく、にこりと笑い、分かったよ、と言った。
 この日、世界が救われたのか、世界が救われるチャンスを失ったのか。僕が考える限りは世界は救われたと言うことで良いのだ。
 ただ一つ言えることは、摘希の孕んでいた可能性の大部分は今失われたのだ。もしかすれば、魔法のエネルギー源はここにあるのかもしれないという気がしてきた。魔法自体が孕む膨大なポテンシャル的なエネルギーが、今可能性を失うという形で大量消費された。その消費分は何かと言えば、今までの魔法だったのではないか。永久機関はあり得ない、だけど、箱は開けてみるまで何か分からないのだ。
 でも、全ては闇の中。結局僕は魔法の原理なんかこれっぽっちも分かっちゃいない。好き勝手に、自分の知る法則に当てはめているだけに過ぎない。そのくらいのことでしか僕には抵抗することができなかったのだ。
 だけど、僕はこの判断に窮するつもりはない。あくまで、摘希は僕の魔法使いだから。


あとがき

 現代ファンタジーというか不思議系というか世界系な、本作。とにかく、書きたかったのは魔法と理系。それが書けたので満足。結構粗が目立つが、構想含めて執筆完了まで5日間という超短期作品。
 にしても、構成的には『恋をするのも面倒で』と大して変わらない。くっついて離れて、台詞一つで巻き返しがあって、それで成功するかどうか。いつの間にやら俺は恋愛小説書きになっているが、まぁ気にしないことにしておく。このパターンでまだまだ数作書けそうな勢い。
 そこまで思い入れのない本作。とにかく、魔法と理系。魔法を定義しないことに苦労。魔法を書くたびに何らかの形で自分で魔法を定義していて、何度も練り直す羽目に。定義しないと言うことが難しい。加えて、理系描写。理系の理系(つまり、非工系)の主人公から魔法をとらえると、なんか一元的になって、つまらん人にはつまらんらしい。その主人公のつまらなさも含めて、この話の筋でもあるわけだけど。
 筋というか、要するにすれ違った二人がだんだんよりを戻していく描写というか、裏状況はもう自然と書けるようになっている、ようだ。表面的な事だけじゃなくて、だんだんお互いを理解していく様を描かなくてもそれができているように思う。それだけでも好きだと言ってくれる人がいるのだから、私は上達したのかなと思ってしまう。

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