クガハツネ

22

 玖珂に連れて来られたお店は、カントリー調のインテリアが並ぶかわいらしい店だった。何度か竹元ともこのお店がかわいいとか話してはいたが、一度も中に入ったことはなった。木目や革の茶色に彩られた店内のショーケースに、ペンダントやら、リングやら多くのアクセサリーが並んでいる。
 玖珂はこの店にはよく来るのか、そそくさと店の奥に入って行った。和坂もそれに続く。
「ここ、ほかの店より安いのにかわいいのがいっぱいある」
 和坂には安いのか高いのかすら判らなかったが、確かにここにあるものならば和坂でも手が出せそうだった。
 玖珂がいろいろ見て回っている。和坂も慣れない店内を見て回った。アクセサリー以外にも、グラスなどのちょっとした小物や、ベルトなども売っている。シルバーアクセサリーのデザインもいろいろあるようだ、ハート型などかわいらしいものから、髑髏や十字架、一体何を形容したのか判らない形をしたものまで。
 その中で、四角い板からハートと星を抜いたデザインのものを和坂は気に入り、それを買っておくことにした。玖珂が言うには、一緒にチェーンを購入して、ネックレスにすると良いらしく、言われるがままに和坂は購入した。プレゼント用の包みもしてもらった。気に入るプレゼントが見つかって良かった。後はこれを竹元も気に入ってくれるかどうかだが。
 和坂が用を終えたところで、玖珂は一番初めに見ていた棚の前に戻っていた。また同じものを見ている。よほどそれが気に入っているのだろうか。
「どれが、気に入ってるんだ?」
 玖珂は指を刺す。球体が三つ連なったデザインのものだった。和坂には分からなかったが、きっとこれはかわいいのだろうと思っておく事にした。それに、それは和坂が今買ったものと比べても、そんなに高いものでもなかった。
「へぇ、かわいいな」
「そう。かわいいよ、これ」
 しばらくそのデザインのアクセサリーを玖珂は見ていた。ちらちらと、和坂のほうを時々覗き込む。埒が明かないと、目線を外に向けると、雪が少し強くなっていた。
「雪、吹雪いてきたな」
「あの!」
 玖珂が声を荒げる。
「あの! わたし、実は今日、誕生日なんだ」
「あぁ」
 そういうことか。でも、そこで一つの思いが巡る。玖珂と和坂はそういう関係だったのか。
 だが、今日の和坂は、いや旅行から帰ってきた和坂はひどく落ち着いていた。だから、冷静に考えることができた。
「ダメだよね。うん、ごめん!」
「いいよ」
 ふと、玖珂の笑顔も見てみたい気がして、それにそれはそんなに高くなかったから。
 玖珂はひどく驚いていた、その顔も次第に喜びを表す表情に変わる。和坂は思った、玖珂がこんなに喜んでいる表情を今まで見たことはなかったなと。
「あり、ありがとう」
 玖珂がちょっと涙混じりに言う。
「オーバーな。誕生日だろ、貰っても悪くはないはずだろ」
「うん」
 あくまで、玖珂とは友達のはずだ。だから、
「そこでだ。俺がそれ買ってあげただろ。で、来月の、二十日が実は俺の誕生日なんだよ。だから、そのときに何かくれよ、それでいいだろ」
「……うん。じゃあ、同じの贈る」
「えっ、そうか。違うのでいいよ、俺に似合いそうなやつ玖珂が選んでくれよな。じゃあ、俺の誕生日は二十日だから、忘れるなよ」
「……うん」

23

 雪山に行って以来、竹元はさらにバイトに勤しむようになっていた。それが和坂にとってはただごとではなく、純粋に一緒にいる時間が減る訳だが、休日はとにかく和坂と竹元は会わなかった。夜くらいは電話で話そうと和坂が提案したが、竹元は疲れていてすぐ寝てしまうらしく、それどころじゃないようだ。そんなこんなで、和坂は欲求不満でならなかった。和坂の誕生日くらいは空けてあげるからと、なだめられていた和坂だった。
 ちなみに、竹元のバイト先は地元の牛丼屋だった。和坂も時々そこに訪れたりしたが、竹元の意地か徹底的に無視されていた。和坂も和坂で意地になって日曜日のお昼は決まって牛丼を食べていた訳だが、それが三回ほど続いたその日に、
「アキうざい。止めろ」
 そう電話越しに言われたものだから断念するしかなかった。さすがに和坂もこの件に関しては反省していた。
 それでも平日の放課後は部活と帰り道を一緒にしているのだから、ほぼ毎日顔を合わせている訳になる。それでも、朝は和坂は和坂で頑固に早起きを通していた。
「アキも朝寝坊しようよぅ。惰眠は最高の極楽だぞ!」
 竹元が朝をどれだけ弱いかはこの前の旅行で嫌と言うほど知ってしまった和坂だったが、
「サナも早起きすればいいだけの話だろ」
 強情に反応してしまう。言ってしまってから、過去にわざわざ早起きしてくれた事があったのを思い出して、しまったと思う頃にはもう遅い。
「また玖珂さんと一緒? アキも好きだね!」
「俺が誰が一番好きか知ってるだろ!」
「わたしでしょ。じゃあ、寝坊しようよ!」
「早起き!」
「惰眠!」
 と、この調子で喧嘩が絶えない二人だったが、充実した日々である事には違いなかった。さすがの和坂ももうキスの回数なんて覚えていなかった。
 だが、それが一変したのは、和坂の誕生日に竹元のバイトのシフトが入ってしまった事に起因する。自分の誕生日くらい一日ずっと一緒に過ごしていたかった和坂はいつになく意地を張っていた。正直その日くらい、竹元と抱き合いたかった。
「ごめんって言ってる」
「もう、バイトなんか止めちまえ!」
「あー、そういう事言う! ……アキも玖珂ちゃんと過ごせばいいじゃない」
 カッとなると切り札のように竹元は玖珂の事を出した。まだあの一件を根に持っているのを隠しもしない。
「玖珂はただの友達だよ」
「そうよね、友達よね。でも、たかが友達と普通毎日一緒に登校する?」
「そんな言い方はないだろ!」
 和坂は和坂でカッとなってしまうのが悪いといつも後から反省してはいた。ただし、この二人は素直に謝る事はまず無い。翌日になって二人ともけろりと忘れて付き合う。それで十分保たれているように、和坂には思えた。

24

 それでも、和坂は玖珂と朝は一緒に過ごしていた。つまり、和坂は玖珂の話を聞くのが一つの趣味にまでなっていた。毎日が玖珂と始まって、竹元と終わる。この日常が和坂も変わらず好きだった。
 竹元がバイトで自分を保っている一方、和坂はたまに竹元の事で玖珂に愚痴をこぼしたりもしていた。竹元は玖珂と和坂が一緒にいるのをあまり快く思っていないのは確かだったし、半ば竹元も諦めてくれてはいたが。玖珂には和坂が竹元の話をしたとしても、
「そう。それで、ジャパンカップ選出決まったけど、あれはいけないよ」
 と、とりつく島もない玖珂は相変わらずだった。だから、和坂は気軽に玖珂相手に愚痴をこぼしていたようなものだった。
 和坂と玖珂の事で変わった事は一つあった。最初、和坂は気づかなかった。和坂はそういやと、思い出して尋ねてみた。
「この前誕生日にあげたやつ、気に入ってもらってる?」
「……うん。ありがとう」
 そう、本当に素直に、うれしそうに言ってくれる。いつも楽しそうな玖珂が一層良い表情をする。だから、和坂は癖になって、
「この前誕生日に挙げたやつ、まだ気に入ってもらってる?」
「うん。ありがとう。でも、それ三回目だよ」
 さすがにからかいすぎか、ふぅと、ため息を付く。でも次の瞬間にはまた新しい話を玖珂が始める、一方的に。
 そして五回目の笑顔を見た時に、和坂は尋ねた。
「たまに付けてる?」
「今も付けてる」
 マフラーを外し、首筋に手をやる。すると、この前確かに玖珂にあげたシルバーがネックレスのチェーンに繋がれていた。
「もしかして、毎日付けてる?」
「うん」
 制服、特に冬のシーズンの冬服にただでさえもマフラーをして首の当たりなんて見えないというのに。女の子というのはそこまで拘るものなのだろうか、和坂はその程度に感じていた。本当は「隠れて見えないけど、良いものなの?」と和坂は聞きたかったけれど、その時はすぐに違う話を始めたので、聞けなかった。
 要するに、和坂は玖珂と結構楽しく過ごしていた。和坂の中で竹元と玖珂は全く別のもの。竹元は恋人で、玖珂は朝の日常を供に過ごす友達。しっかりと区別ができていると和坂本人は信じていた。だから、少しくらい、また休日にでも玖珂を誘ってやろうとさえ思っていた。だから断らなかったのだろう、そう和坂は後から分析した。
 その時、和坂はどうせ受け流してくれると思って、竹元が誕生日にバイトを入れてしまった事を話した。すぐに切り替えてくれる事を期待していたのに、
「そう。なら……」
 うまく和坂は聞き取れなかった。玖珂が、本当に珍しく、目線を逸らして声をすぼめたから。
「なんだ?」
「わたしと、誕生日、過ごさない?」
 初めて、玖珂の方から誘ってくれた。和坂はそれに興奮を覚えて
「いいよ。どこか行こうか? この前言ってた映画見に行こうよ」
 と、すぐ返事をしてしまっていた。
 後で後悔した和坂だった。その時は、初めて、本当に初めて、玖珂の方から誘ってくれたから嬉しかったのだ。それが、竹元に対する裏切りになるなんて考えもしなかったから。

25

 今度は乗り込む駅でいきなり会わないだろうかと警戒したが、さすがに会う事はなかったので和坂はほっと胸をなで下ろす。
 一月二十日。今日は和坂の誕生日。この年になると誕生日で騒ぎたいと言うよりも、好きな人と一緒に過ごしていたいと思う気持ちの方が強い。それは和坂も同様で、自分の誕生日だから期待する、そんなものではなく、ただ玖珂とのデートを楽しもうと思った。
 和坂のプランとしては、まず予定の映画だけ見てしまって、そのあと玖珂の買い物に付き合った後は、早めに別れようと思っていた。竹元のバイトが終わる時間を聞いてあったから、夜の十時にはなるけれど、それから一緒に短い間でも過ごそうと考えていた。
 和坂が約束の時間より五分早く付くと、待ち合わせ場所の、時計塔の広場にはもう既に玖珂が待っていた。四度目の玖珂の私服姿。それを見つけると、和坂は引き返して缶コーヒーを二本買った。前に玖珂が好きだと言ったメーカーの缶コーヒーを和坂は覚えていた。
 和坂が近づくと、玖珂はすぐに分かったようだ。手を振って、その手で缶コーヒーを受け取る。
「待たせたね。寒いでしょ」
 早速自分の頬に缶を当てる。今日はいつも以上に肌寒かった。
「温かい。ありがとう」
 また玖珂が笑顔を向けてくれる。竹元が笑顔を向けてくれるのとは別の意味で嬉しかった。
 それから前回同様、食事時にアクションものの映画を見て、それから遅めの昼食、今日は喫茶店に入って軽く食べようと相談した。アーケード街から一本離れたところにあるこの喫茶店は、昭和初期の香り漂う喫茶店で、和坂達にとっては新鮮な雰囲気だった。和坂はここによく竹元と来ていた。
「雰囲気変わってるけどね、ここはコーヒーが美味しいんだ」
「そう。それで、揚げパンなんて食べるの何年ぶりかな。そう言えば最近揚げパンが給食でもでないらしいよ。わたしは砂糖よりきな粉の方が好きだよ」
 そこでしばらく和坂は玖珂の話を聞いていた。なんとなくだが、とても落ち着けている気がして、こんな誕生日も良いかもしれないと思い始めていた。
 しばらくすると、玖珂が思い出したように、
「誕生日プレゼント。これ」
 と、赤いリボンでくるまれラッピングされた縦長小箱。恥ずかしいと思えるほどに、かわいく装飾されたその小箱を渡され、
「ありがとう。開けて良い?」
 玖珂が頷いたので、和坂は慎重に開け始めた。縦長のその小箱を空けると、

 どきり

 これは和坂に見覚えがある。それに、三日前にも同じものを見たばかりだ。そうそれは、確かに、和坂が玖珂の誕生日に贈ったものと、同じデザインのシルバーアクセサリーのネックレスだった。
「これ、この前、玖珂に贈ったのと同じだよね」
 内心焦っている和坂に構わず、玖珂は臆面もなく頷いた。和坂は付けるべきか一瞬躊躇したが、結局付ける事にした。チェーンの冷たい感触が首筋に宿る。そして、玖珂も同じものを見せてきた。
「おそろい……か」
 玖珂は満足そうだった。
「これ、よっぽど玖珂が気に入ってたんだよな。ありがと」
「どういたしまして。誕生日おめでとう、和坂くん」
 面と向かって、こう言われたのは今日はこの時が初めてだったので、和坂は素直に照れていた。玖珂なら、あの傍若無人で、勝手にお喋りする、そんな玖珂ならこういうプレゼントもありかもしれない。それに、これを自分が受け取った事で玖珂が喜んでいる。和坂はそれで良い、そう思う事にした。
 和坂は、それから、もうしばらく、玖珂と一緒にいようと思った。竹元のバイトが終わるその時まで。玖珂が、和坂自身にもよく分からない寂しさを癒してくれている気がしたから。

26

 気づいた時、和坂は見知らぬ一室でシャワーを浴びていた。頭が痛い。そうだった、和坂はお酒を飲んだのだった。
 だったらここはどこだろう。思い出そうと賢明に記憶を辿る。今日は、もう零時を過ぎていただろうが、和坂の誕生日だった。竹元は忙しいから、成り行きで玖珂とデートする事になって。
 思い出した。そう、和坂は玖珂を抱こうとしていたのだ。
 竹元のバイトが終わっただろうと思われる十時半に和坂は携帯に電話をかけたが出なかった。その時はまだ玖珂と一緒で、玖珂が空腹を訴えた。和坂と玖珂は近くの居酒屋に入って、そこでいつになく語り合った。もう竹元に今日は会えないと思うと、和坂はヤケだった。玖珂もビールを飲む方だったので、遠慮なく二人で飲んだ。いつも喋る玖珂がこのときはあまり喋らなかった。代わりに、和坂が喋っていた。日頃の竹元に対する不満、それとどれだけ玖珂といると落ち着けて、感謝しているかと。もうひとつ、玖珂とは友達であることも。
 今まで喋っていなかった事を吐露するかの様に喋る和坂。しばらくして、玖珂はうつむいて耐えられなくなったかのように、そして近づき、和坂の口をふさいだ。キスで。
「好き」
 と、消え入りそうな声でつぶやいた。そう、つぶやいた。和坂の記憶はそれを確かに残していた。
 その辺りでもうすでに記憶がなくなっている。だいたい、初体験しか終わっていないというのに、一ヶ月待たされ性欲を持て余した和坂が何をするかなど、自身が最も分かっている事だった。
 このシャワー室の扉の先に自分を受け入れる玖珂が居ると思うと、和坂はどうして良いか分からなくなった。なにとなく、悲しかった。それは玖珂が自分を好いていてくれた事、身を差し出してまで和坂を好いていてくれた事、その事が悲しかった。正直そこまで好いていてくれた事は、和坂は嬉しかったし、だけどそれは何か違う気がした。
 さて、和坂は玖珂に謝らなくてはならない。今の和坂には、勢いでなければ、玖珂を抱く事なんてできない、そう思っていた。このことを玖珂に言う事がどれほど玖珂を悲しませるかと思うと、億劫で仕方がなかった。いや、玖珂は分かっていたはずだ。どれほど和坂が玖珂ではなく、竹元を好いている事くらい。玖珂自身が、真っ向から好かれているわけではないことくらい。
 シャワー室の扉を開き、そこに脱ぎ捨ててある自分の衣服を羽織る。更衣室を出ると、シックなベッド上に、一人シーツだけを纏う玖珂を見た。その時和坂がどんな表情をしていたかなんて和坂自身知らない。ただ玖珂は、そんな和坂を見て全てを悟っただろう。
「……ごめん」
 背後で玖珂のしゃくり上げる声を聞きながら、和坂は部屋を後にした。

27

 玖珂を残してホテルを出た和坂に、行き先なんて残っていなかった。今の時刻は深夜二時。もう終電は出てしまっている。特に今日は冷え込んでいて、どこかで休まない事には凍えてしまいそうだ。一瞬、このまま凍えてしまっても良い、そう和坂は思った。
 携帯をみると、竹元からの留守録が入っていた。気づかなかった事を悔やむ余裕もなかったが、やる事もなかったので、地べたに座り込んで、耳に当てた。地面はさらに冷たかった。 『今どこー? プレゼント、渡させなさい。誕生日おめでと、は会ってから言う。あっ、言っちゃった』
 もう、遅いだろう。本当は一緒に過ごしたかった竹元はもう寝てしまっているだろう。もう、今は一人だ。どうしようもないくらい、今は一人だ。
 どうやって今から過ごそうか、とりあえずコンビニを探して暖まろうと思った。闇雲にしばらく歩いていると、突如携帯が鳴った。このポップスに割り当ててあるのは、
「……はい」
「もしもし、アキ今家に居る?」
 そこに現れたのはいつも通りの竹元の声。無性に、竹元の声が懐かしくなって、嬉しくて、安らいで、なにも考られなくなって。
「何、アキ。今どこにいるの? 家じゃないの?」
「路頭に迷ってる」
「えっ、今どこにいるの? 外?」
「うん。……あのさ」
「会いたいよ、わたしも。違う?」
 あぁ、この感じだ。和坂は思わず、こみ上げてくるそれに身を奪われそうになった。
「そう。……でも」
「それで、どこにいるの? わたしが行くから」
 今日玖珂との、いや、いつも竹元との待ち合わせに使う時計塔の前で待つ。およそ三十分して、この寒い中、自転車でやってくる竹元の姿を確認する。
 その時だった、竹元の姿を見て気がゆるんだ時だった、和坂は堰を切ったように、こみ上げてくるものを抑える事ができなくなっていた。
「アキ」
 竹元は止めるでもなく自転車から降りて、自転車は倒れる。和坂は竹元に抱きしめられていた。だから、和坂は何も気にすることなく、泣いた。ただ、泣いた。
 和坂のそれを、竹元は受け止めてくれていた。そして、そんなくちゃくちゃの顔のまま、竹元とはキスをした。長いキス。こうやって求め合うのも久しぶりだった。
「アキ、誕生日おめでとう」
 自転車に乗せていたため、転がり落ちてしまったそれを竹元は拾い、和坂に握らせる。和坂はそれを受け取り、ただハンカチで包んだだけの布をほどく、しわくちゃに。まだ手が震えていた。現れたのは竹元が行きたいと言っていたテーマパークのチケットが二枚。
「今度、行こう。来週は休み取れたんだ。ごめん、今日空けられなくて。でも今日は……その……休もう、ね」

28

 それからは、和坂も寝坊するようになった。正確には、目覚ましの鳴る時間まで布団から出ない事にしている。そうであろうとも、母親は午前中ずっと寝ていたし、和坂家に変わりはなかった。ただ、電車の時間を遅らせる事で、和坂は竹元と朝から過ごす事になっていた。
 そうなって、もう二ヶ月が経とうとしていた。受験のため、三月で部活は引退し、竹元はバイトを止めて、さらに和坂と竹元が二人で居る時間は長くなった。一緒に勉強しているはずなのだが、それ以外の事も着々と育んでいった。
 玖珂とは、あの一件以来、登校中に会う事はなくなったし、学校ですれ違った時もお互いがまるで居ないかのように過ごすようになっていた。和坂にとっては玖珂とすれ違う度に、あの時の思いがよぎって仕方がなかったが、次第にそれも慣れていった。和坂にとって、玖珂の事はもう忘れたい存在だった。玖珂との一件は全て竹元に話したし、もうこれ以上複雑にしたくなかった。
 玖珂の事が嫌いかと聞かれれば、和坂は嫌いじゃないと答える。しかし、もう元のような友達には戻れない、玖珂が思いを寄せてくれていると分かったから。そうでありながらいつもあのような付き合いを続けていた事に、和坂は嬉しく感じなくもなかったが、正直怖かった。受け止める事が怖かった。
「これで良かったんだ」
 和坂がそうつぶやくと、そこには竹元が居る。もう日常となった、朝の登校風景。前の早い時間よりも人が多い。割合はサラリーマンより学生の方が多い時間帯となっている。
 突然のつぶやきに、竹元は意味が分からないと目線を送るが、
「……うん、良かったんだよ」
 目を細めて笑って、竹元も少しずつ変わっていた。意地の張り合いだったお互いの仲も悪くはなかったが、お互いだいぶ落ち着いていた。以前より喧嘩は少なくなった。
「おっ、俺の気持ち通じた?」
「ううん、全然。テレパシー送るならもっと上手く送りなさい。ま、こんなに近いし、テレパシーもいらないけど」
 この日常に和坂は満足していた。代わり映えのない、日常。でも守りたい、日常。一番安らげる、日常。これがあと一年、高校生活の残り一年、続いてくれる事を和坂は願っていた。


 そこには見栄え変わらない玖珂が居た。
 この時間に電車に乗るのはおよそ半年ぶりだった。受験生にとって名前だけの夏休みを目前に控えた大暑の日。これも久しぶりに、和坂と竹元は喧嘩した。
 和坂はいつもゆっくりしている朝に、発破をかけて早い時間に出てきた。竹元との喧嘩もあるが、それに加えて今日は実力試験があった。玖珂を見つけると、和坂は早起きをしてしまった事を後悔した。
 分かっている、そこに玖珂が居るのは。もちろん玖珂も和坂の事に気づいているだろう。広い車内じゃない。今日は人も疎らで隠れる場所もない。ちらっと、玖珂を伺う。いけない、目線が合ってしまった。
 玖珂が動き出した。こっちに来る、和坂の元に来る。冷や汗をかく。あぁ、しまったな、逃げ場を奪われた、追いつめられた、観念しようにもできない。
 背後の気配だけで玖珂を感じていながら、
「おはよ」
「オス。おはよ」
 和坂は一瞬かつての日常を回顧した。その言葉も、自然と出た自分の口に驚きを隠せない。
「それでさ、今日の国語の試験って、近藤先生が作るんだよね。近藤先生と言えば、この前授業で生徒を当てるんだけど……」
 一方的な玖珂の話が始まる。それは今の和坂にとって、上の空でありながらも、どこか懐かしくあった。妙にその場所が自分の居場所のような気がしてきて、誰にも譲りたくなかったその場所だという気がしてきて。
 以前と変わらない玖珂。玖珂はいつでも和坂を受け入れてくれていた。竹元と付き合っていると知っていようが、玖珂の事を忘れようとしていると知っていようが。玖珂は見た目変わっていない。何を考えているのか、和坂には見当もつかない。
 ただ、玖珂はまだあの贈り物を付けているだろうか、それだけが気になって、でもそれを聞く勇気は今の和坂にはない。ただ玖珂の話に身を任せるだけだった。
 それでも、心地よい、そう感じている和坂がここには居た。