クガハツネ

15

 朝は寒い。もう北方の地域では雪が降り始めたと報じられていた。この地域は雪国でもないので、そうそう雪など降るものでもない。だけれどこの寒さはどうにかして欲しい。和坂はそう考えながら、ただがむしゃらに、寒さも日常に取り込む勢いで自転車をこいでいた。手がかじかむ。
 駅に着き、電車に乗り込めば、電車の中というものは温かいもの。それは人の暑苦しさなのか、暖房を効かせてくれているのか、和坂は後者だと思いこみたがっていたが。さらには日常となっている玖珂もそこには居る。玖珂の話を聞いているだけでも、和坂は寒さを忘れられた。
 ホームに人が溢れている。電車が見えてきた。早く車内に入りたい気持ちと同じに、ただ玖珂に会いたかった。それで紛れるものがあったから。
 電車はかなりゆっくりとした速度になってから止まる。みなが乗ろうと扉の前に集まるが、和坂が一番前だった。開く前の扉の窓から、玖珂の姿を探す。居た、本を読んでいる。だから、扉が開くと同時に。
「オス。おはよ」
「おはよ」
 返事をすると、読んでいた文庫本を鞄の中に仕舞う。ただそれだけに、鞄がなかなか空かなくて戸惑っている玖珂に、和坂は鞄を持ってあげる。
「ありがと」
 短い言葉だったが、前にその言葉を聞いた時より大きかったので和坂は朝から満足した。
「昨日、新製品のフルーツジュース、ペットボトルの、飲んだんだ。名前は何だったかな、フルーツなんとかスターズとか」
 いつも玖珂は名前を正確に覚えてはいない。玖珂のそんなところが和坂にとってかわいいなと感じていたし、和坂自身も自覚していた。玖珂はどう思っているか知らないが。
「ミックスジュースだけど、ミックスジュースってミックスジュースの味がすると思うけど、これ、ミックスジュースじゃなくて、ミカンとかリンゴとか、桃とかの味が順番にくるんだよ」
「そりゃおかしい。ミックスジュース失格じゃないか」
 和坂は、玖珂が小さくではあるが、ペットボトルを掴むようなポーズをしている事に気づいて、ちょっと嬉しくなった。
「でも美味しかった。ペットだけど、今お試し価格って一二〇円だったんだよ。これはお得だと思って」
 いつもの日常だった。時間も、場所も、状況も。和坂にとって変えたくない日常、話したくない日常。そんなひとコマが毎日繰り返されている。和坂にどんな文句の言い様があっただろうか。そう、和坂は竹元とのキスの回数が三桁に入ったので喜んでいたのだが、それは和坂の奥底にしまい込んだ秘密である。
 乗り換えの駅。いつものように、玖珂が先に降りる。和坂は玖珂に遅れをとらないよう、人混みをかき分けるように進んでいく。いつもより駅の人が多い。玖珂と離れてしまう。
「アキ! おはよう!」
 突然の声に和坂は「ひっ」と悲鳴を上げてしまった。

16

「なに、アキ。朝からわたしに化けて出て欲しい? それより、褒めて褒めて」
 和坂の日常には有り得ない光景が広がっていた。この時間は、玖珂と居るはずの時間。それを蹂躙するのは竹元。
「早いでしょ。この時間ならアキが居ると思って、いつもより二時間も早く寝て、三十分も早く起きたんだよ。ねぇ、褒めて」
 人込みも意に介さず、詰め寄ってくる竹元に、和坂は混乱していたし、正直会いたくないとさえ思った。冷静になるよう自分に言い聞かせて、竹元の腕を掴み、とりあえず人の通り道から離れた。そこで竹元が和坂の掴んでいた腕を振り切る。それでも、竹元の機嫌は良さそうだった。
「そういやアキ、朝友達と来てるんじゃないの? あっ、もしかして見失っちゃった。だったら、ごめん」
「そうじゃないから、大丈夫」
 どうにか動揺を悟られまいと、気よ落ち着けと、和坂は唱え続ける。別に和坂に後ろめたい部分があるはずがないのだ。ただ、そう、『友達』と一緒に登校しているだけだ。だけど、竹元にはそれは知られたくはない、そう思ってやまなかった。この日常は和坂自身だけのものであって欲しかった。
「じゃあ、行こ」
「もう無理。この時間、すぐ行かないと間に合わないから」
 嘘だった。玖珂はすぐの電車に乗っている事を祈って。
「そっか。次はいつ?」
「十五分後」
 それくらいなら、玖珂も行くだろう。和坂は玖珂にこの時ばかりは待っていて欲しくなかった。
「あぁ、ちょっと長いね。せっかく早起きしたのになぁ。じゃ、休もっか」
 和坂にとって、今日は完全に不意打ちだった。
 この前は楽しかったとか、人目がなかったらなぁとか、いろいろ十五分の間に話したはずだったが、和坂の記憶に残りはしない。
「そろそろ、時間だ」
「あっ、そう。行こ」
 立ち上がり、次のホームへと歩いていく。この間は五分ほど歩かなければならない。鉢合わせなければいい、玖珂がもう先に行っていればいい。こんな時に、玖珂に会いたくない。もし玖珂が居たら、和坂は玖珂に声をかけなければいけない気がしてならなかった。玖珂なんていないかのように振る舞えたら、どんなに楽だろう。そうするには、和坂と玖珂は親しすぎるのではないか。
「あっ、玖珂さんじゃない。早いんだね」
 竹元は先に駆けていく。それは和坂には思いがけない言葉だった。

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 確かに、玖珂と竹元が友達であってもなにも不思議がない事に、和坂は初めて気づいた。そう言えば、去年は玖珂と竹元は同じクラスだったはずだ。急いでそれに加わる。
 それに玖珂は、自分に起こった事は喋るけど、自分の主張はなかなかしないはずだ。だから、大丈夫なはずだ。そう和坂は言い聞かせる。
 その前に、別に和坂は後ろめたい事をしていないはずだ。だけど、どうしてこれほどに退けたいと思っているのか、それは和坂の日常を崩されたくない一心か。
 そんな心の内などつゆ知らず。三人一緒に電車に乗り込む。座れるほど席は空いていないので、立つ事になるが自然な事だった。
「玖珂さんって、いつもこの時間?」
 いきなり核心を突く、かもしれない質問に和坂は驚いたが、
「もっと早いだろ。良く一緒になるよ」
 と、和坂は先手を効かせる事にした。玖珂は「うん。そうだね」と、普段より小さめの声で言った。
「へぇ、物好きがここにも一人いたんだ。そんなに早起きは良いかね、君たち。わたしは眠くて仕方がないよ」
 おとぼけながらも、確かに竹元は眠そうだった。自然に欠伸を一つ漏らす。
「話の続き、するよ」
 と、玖珂は言った。「続き?」と竹元が漏らしたが、まだ竹元は眠そうで本調子ではなさそうだったのが救いだった。
「さっき広告見た? あっ、ここにもある。不法電波は犯罪ですって、車内にしてもあまり意味がないと思う。それに、あの絵怖いよ」
 玖珂が示した先、そこには空から見下ろした町並みの上に、黒サングラスをした男の顔が浮かび上がっている。その下に、『シートベルトを締めましょう』と同様の標語のように『不法電波は犯罪です』と大きく書いてある。
「うわぁ、確かに怖いかも。電波の顔が世界を覆っている、って雰囲気だよね」
 竹元がコメントする。玖珂は変わらなかった。
「あれ、わたし面白いと思う。たばこの広告なんだけど、大人のマナー講座って、あれ絶対誰も使わないよ。お父さんたばこ吸うから、わたしももう、なんだっけ、そう、受動喫煙者だよ」
 玖珂は、確かに和坂の方を向いて話していた。竹元は玖珂の向こうから和坂を見ていた。その顔は、だんだんと表情を失っていく。
 そう、これが和坂が恐れていた事ではなかったか。和坂は常に玖珂とは二人きりの関係を築いてきた。友達であっても、二人きりで友達と言えるそんな関係に。それに、竹元が入ってこようとも、玖珂は変えたりはしない、できない。玖珂は器用じゃない。でも、したい事はする。それが和坂と玖珂の関係だったから。
 ずっと、それが続いていく。和坂の仕事は玖珂に相づちを返すだけ。竹元は、所在なげに、ただ和坂の方を向いていた。竹元は珍しく、無表情だった。和坂にはそれを打破する事も、何もできない。ただその場に身を任せるだけだった。

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 結局学校でいつもの下駄箱のところで、「じゃ」と、玖珂との日常となっている短く挨拶するまで、竹元とは話せなかった。竹元はきちんとついて来ていたが加わってはいなかった。
「アキって、よく玖珂さんと一緒なの?」
 その声は、不機嫌だと言わんばかりの、
「……うん」
「仲良いんだ」
「……うん」
「びっくりした。男友達って、玖珂さんだったの」
「違う、今日はたまたま」
「そう、たまたまね。…わかった。また部活で」
 竹元は振り向かずに去っていった。
 今日ほど重苦しい日は、和坂の人生で今まで無かっただろう。こんな事和坂は望んじゃいなかったし、これで和坂の日常が崩れてしまうかもしれないのが、怖かった。
 時間が経つ。授業なんて上の空だった。でも、その間に、次第に和坂自身は悪いことしてないのではないかと思えてきた。玖珂と和坂との関係なんて、竹元には関係ない。どうして、自分が怒られなくちゃいけないのか。和坂は混乱していた。日常が渦巻いて、違う模様を見せていた。
 それでも、所詮は同じ学校に三人ともいるわけだから、移動教室の時などに結局会うことになる。和坂、玖珂、竹元とも違うクラスではあるのだけど。購買にパンを買いに行こうとしたときだ。いつもお昼は竹元とすごす和坂だったが、今日はクラスの男友達と食堂で過ごしていた。しきりに、自分は何も悪いことをしていないと言い聞かせながら。
 そのときに、食堂から教室に戻るときに、和坂は玖珂とすれ違った。玖珂はクラスの女友達と楽しそうに話していた。和坂は見て見ぬ振りを決め込むつもりだった、だが、ふとした瞬間に玖珂と目があった。ただ一瞬だったが、和坂は何かに射抜かれたような気分になる。玖珂からこんな印象を受けたのは初めてだった。後で、単なる錯覚だったと思い直した。
 和坂にとってただ長かった一日の授業も終わり、放課後となる。和坂の日常どおり美術室へと向かう。美術室は日当たりの関係から最上階となる三階に位置している。今日はそこまでの階段が億劫で仕方がなかった。竹元と会いたくない訳ではない、ただ、今日の境遇が和坂に不利に働いている様に思えてならないのだ。
 だが、美術室に入ると、そこは和坂の知るいつもの日常だった。数少ない部員が思い思いにカンバスに向かい、クロッキーを開き、石膏像のアグリッパやアリアスが談笑している、そんな日常がそこにはあった。
「あっ、アキ。やっと来た」
 これもいつもの調子で。快活な、あの竹元がそこにはいた。
「あのさ、朝ごめんね。気分悪くさせちゃったでしょ」
 何の絵を描いているのか知らないが、クロッキーから目を離さずに喋る。これも日常のひとつ。
「別に……気にしてないから」
「そう。なら良いけど。じゃあ、お昼どうしたの?」
「食堂で食べてた」
「それならメールでもくれれば良いのに」
 声色はいつもの調子だったので、そのまま和坂も活動を開始した。態度もいつも通り、帰りは一緒に歩いた。唯一違ったことと言えば、和坂と竹内が別れる、いつもの乗り換えの駅で、
「あと、明日は早起きしないから安心して。じゃ、ばいばい」
 そう言い残して、竹元が足早に去っていった事だけだった。

19

 次の日も同じ時間と決め込んだ。日常は自分で得るからこそ日常なのであり、自分の力で得ないものはもはや日常ではなく慣例だと和坂は考えた。だからこそ、今日も同じ電車に乗ることにした。気になった昨日の玖珂の目線は、勘違いだったということにしておいた。それが一番良い気がしたから。
 再び日常は戻ってきた。朝は玖珂と一緒に登校し、放課後は竹元と一緒に下校する。得ようとすれば得られるものだと和坂は思いもしたが、完全に以前のようにもいかないのが現実だった。
 玖珂とは以前となんら変わることはない。ただ同じ時間を共有して、一緒に登校するだけ。逆に変わらないのが和坂にとって不思議でならなかった。でも、それは和坂が望んだことでもあった。
 竹元とは、どうも調子が悪くなっていた。キスはここの所できないままだし、なにとなく、お互いにそういう気分になりきれないところがあるように和坂は感じていた。どうもタイミングがつかめない。強引に、そうできるほど和坂はできていなかったし、竹元がそう振舞うものだから和坂もそうなってしまっていた。当てつけか、和坂はそんなこと望みたくなかった。
 いつかは元に戻したい、そしてさらには。和坂はひとつ考えがあった。今はもう秋とは言えなくなり始めた十一月の中旬。十二月のいつかの土日に、竹元を雪山に、スキーかスノーボードに誘おうと思っていた。それをいつ切り出すか、そのタイミングがつかめずに和坂は困っていた、ただ困っていただけなのだ。
 そんな形だけは日常となった朝、和坂は最近はさすがにマフラーと手袋を着用していた。首筋は温かかったが、顔に当たる風は冷たいままだった。風を切って走る自転車、和坂は自分に鞭を打っているようで、妙に快感を得ていた。
 そして、玖珂はそこにいた。変わらず車内にたたずみ文庫本を広げている。何を読んでいるかは和坂は聞いたことがなかった。
「おはよ」
 乗り込むと同時に先手を打った。そのとき、後ろから乗り入れる人が背中を押してきた。バランスを崩し、瞬間和坂は情けなく思いながら、玖珂に抱きつく形で姿勢を保った。すぐに離れる。初めて、制服の上着の下に何か首から下げるアクセサリーをつけているのに気づく。首周りから、ちょっとだけ下着が覗いた。
「あっ、ごめん」
 自分が情けない声を上げているのに気づく。
「気にしてない。今日人多いし」
 確かに、いつもより電車は混んでいるようだった。ただ、今日の和坂はいつもより玖珂との距離が近かった。
 どうも、和坂には玖珂に対して、あどけない、地味な女の子と感じることがある。それは玖珂の人柄がそう思わせていただけなのだが、それにどうしても首から提げた何かに対する違和感を覚えて仕方がなかった。そんな和坂の視線に気づいたのか、
「最近、シルバーに凝ってる。チェーンが良いのが無くてずっと探してるんだけど、お手ごろなものが無いんだよ。でも、チェーン探してても、ほら、素敵なのがあると買っちゃうんだよね」
 でも、変わらず玖珂は喋り続ける。距離が近すぎて、話すには不適切な距離であったとしても、玖珂は喋り続ける。ただ、玖珂の話したい意思に任せて。そして玖珂は和坂の目を見ていた。だから近頃の和坂は、少し、目線を外すようになっていた。

20

 和坂は竹元を雪山に誘い出すことは成功した。いつものように、「じゃあね、また明日」と別れる所で、「これ、読んで」と一つの封筒を渡した。
「なにこれ。……ありがと」
 まだ中身を見なくても、竹元は察してくれた。やっぱりお互いにまだ好きで仕方がなかった、そう和坂は感じている。
 その封筒の中には、ある日付に赤い丸をつけたスキー・スノボツアーのパンフレット、それと短い手紙が入っている。
 その手紙の内容は簡単なもので、『この冬二人きりで旅行に行きませんか? お返事待ってます。秋俊』とだけ。
 返事は翌日の放課後、なかなかその話を和坂は切り出せずにいたが、突然竹元が和坂の顔を覗き込んで、
「かわいい、うずうずしてるのがよくわかるよ。昨日のことでしょ。さて、わたしは了承するでしょうか?」
「了承する! だろ?」
 思わず声を荒げてしまう。人の視線を一時集めてしまっただろうが、そんなことを気にできるほど今の和坂は冷静じゃなかった。
「もちろん、了承します。わたしはアキと一緒に山に行きます」
 一度決まると、話は早々と進んだ。一緒にスポーツショップに行ってボードなどを見てきた。お互いに初心者だと分かったのは、その時だった。今時ダサい、などと竹元に言われようが、和坂はその方が好都合だと踏んだ。二人分スノボ教室に申し込んでおいた。
 日が経つのは早いもので、十二月の第二週には定期試験も終わり、すぐ決行の日はやってきた。和坂は親には旅行に行ってくるとだけ話した。竹元は友達と六人で一緒に旅行に行くと親に話した。竹元の親はその友達の家の電話番号を聞きたがったが、どうにかそれも誤魔化した。バイトもその日は休みをもらっていた。親に嘘をつき、友達に嘘をつき、二人だけで、金曜の晩に発った。
 お金がなかっただから泊まるペンションも小奇麗な所ではないだろうが、その方が和坂は嬉しかった。部屋は一緒にしておいた。その事を直接和坂は言わなかったが、竹元がその辺りを何も指摘しないところを見ると、和坂は興奮せずにいられなかった。冗談ではなく、ゴムを忍ばせておいた。
 当日は天候に恵まれた。スノボ日和だった。インストラクターは二十代前半くらいの女性で、「そこの君、谷に向かっていったら死ぬよ」、「ほらのろまなカップル、早く来ないか!」と口は悪かったが教え方はうまかった。お互いに運動には向かないということは分かっていたので、竹元の方が少し上手かったが、それでも二人三脚に楽しんだ。
 夜のペンションの料理は、冷えた身体をただ暖めるだけには勿体ないくらい美味しかった。ぶつ切りにした鶏肉のトマトソースで和えたものだったが、慣れない運動で疲労した身体にはすんなりと平らげられた。
 部屋に戻ると、二人きりであることを目線で再確認した後、突然竹元が見たいドラマがあると言って、百円を投入してテレビをつけた。部屋は思いのほか寒かったのが好都合で、自然に身を寄せ合った。今話題の恋愛ドラマだったが、それも終わりニュースが流れ、しばらくして制限時間となりテレビが消された。
 部屋から一気に音が消え、耳に届くのは雪の降りしきる音と、和坂と竹元のお互いの息だけだった。
 そしてお互いを求めた。

21

 平日は充実していたが、土日がどうしようもないくらい暇な和坂だった。もちろんそれは竹元が土日はバイトに明け暮れているからであり、それならばと和坂もバイト雑誌を広げては見たが、和坂が望むような条件のところは見つからず、結局何もせずに過ごしていた。
 しかし家にいても暇だからと、出かける。ふと和坂は思いつき、何か竹元へのクリスマスプレゼントを買おうと決心する。十二月もこの時期になると、町のイルミネーションもだいぶ見慣れたものになってしまっていた。ちょっとプレゼントを用意するには時期が遅かったかもしれない。
 いくつか雑貨屋を見て回ったが、和坂が特に惹かれたのはクリスタル製の将棋盤くらいで、無難にグラスでも贈るかなと考えていた。まだ時間があったので書店によると、また玖珂が居た。今度は驚くような和坂でもなく、「やぁ」と、いつもと違う挨拶すら返せた。どうも和坂はあの夜から自分が落ち着いてきている。大人になったということか。
 玖珂は小さくうなずいた。また料理雑誌を見ている。鍋物特集らしい。
「ちょっといいかな」
 今度は和坂が誘いをかける。もう、そんなことをしても和坂は緊張するどころか、ひどく落ち着いている自分に気づいて、どうもおかしかった。
「あのさ、玖珂はクリスマスプレゼントにだったら、何が欲しい?」
 えっ、きょうは玖珂が驚く番だった。もちろん和坂は竹元へのプレゼントで悩んでいるためである。何も言わず、和坂の顔を見てくる玖珂。
「あっ誤解しないでね。ちょっと好きな人に贈り物をしようと思ってたけど、どうもいいものが思いつかなくて、助けてくれない?」
「そう」
 玖珂はそう漏らすと、しばらく考えていた様子で、「やっぱり思い出に残るものが欲しい」と言った。
「玖珂だったらどんなものが欲しい?」
 すぐに玖珂は答えた。
「最近、シルバーに凝ってるって、前に言ったよね」
 その話は、本当に玖珂が凝っているらしく何度も聞かされた覚えがある。どこのデザインがよいとか、通販はだめとか、お手入れがどうとか。
「言ってたね」
「そのお店に今から行くよ」
 和坂がうなずく前に玖珂は歩き出した。
「あぁ」
 いつも乗り換えのときと同じように、玖珂についていくだけの和坂。寒空に出る。雪がちらちらと降っていた。今年はホワイトクリスマスになるかもしれない。