クガハツネ

8

 和坂は朝から悩んでいた。なにとなく気まずい。
 まず、竹元との関係について。土日が会えなかったのは分かっている。そうさせてしまったのも和坂自身のように思えて仕方がない。ただ、どうやって竹元に声をかけてあげるか。放課後になればまた元通りになっているだろうか。いつものように竹元と和坂がセットに扱われて、それをお互いに楽しむその関係に戻っているだろうか。
 いや、根本が違っているのではないか。和坂は考えると深みにはまるタイプだと自分でも分かっている。でも、和坂は考え続ける。和坂自身が何を望んでいる? 元通り『しか』和坂自身は望んでいないのか。元に戻るだけなら、簡単な事はない。ただ、周りから当てはめられた『恋人に見える』その枠に二人ではまっていれば良いだけだから。それがお互いに『好き』なら、それで良い。
 良い訳じゃない、和坂にはそう思えてきた。なんだ、単純な事じゃないのか。本当に和坂自身が竹元を好きなら問題がない訳だ。本当に好きなのか? いや、好きだよ。
 堂々巡りになりそうで、これもいつもの事なのだが、そこで思考を止める。いつの間にか、考える事にきりをつける事ばかりが上手くなっている自分に気づく。自分はこういう生き方しかできないのだろうな、齢十七にして和坂秋俊は悟る。
 それでと、次は玖珂について考える。玖珂のあの態度は一体何だったのだろう。素っ気ないにも程がある態度、そうでありながら、逃げるように立ち去ったあの態度。和坂自身が嫌われているのではないか。ただ、電車が一緒になるから、同じ学校だから。玖珂はとにかく人に話すのが好きだ。その相手が欲しかっただけ。
 友達だものな、玖珂とは。それで収まりがついているはずだ。和坂自身が最も好意を寄せているのは竹元であって、玖珂ではない。それは分かっている。でも、玖珂も……そう、かわいいんだ。何がかわいいのか、玖珂が一生懸命話す仕草が? 和坂は玖珂の話を聞くのが楽しいが、玖珂は和坂の話なんて聞いちゃいない、それはいつも。そんなお喋りに好意を寄せている? 可笑しくなってきた。
 そう、玖珂に断られるなんて、もういつもの事ではないか。そう結論できた。
 とたん、和坂は我に返る。どうしてこんな事を思考しているのかと。和坂は考える事が好きだった、だがそれはもっと仕方のないものを考える頭ではなかったか。人について考えるなんて柄じゃない気がする。そう思うと、途端に眠気が増してきた。
 明日の朝は時間を遅らせて、竹元に会おう。眠る事にした。

9

 和坂は妙に朝から眠たかった。起きた時間は日常と呼べる時間だった。昨日の夜に頭を使い過ぎたのがいけないのかもしれない、そう思うと、今日こそいつもの完璧な日常に戻ってやろうと朝から決心して、いつも通り家を飛び出した。それが間違いだったと気づいたのは、いつもの駅についてまだ寝ぼけたまま、肌寒さを感じながら、人混みに今日くらいは紛れたいと願いながら、急行の次の電車を待っている、そこまで至った時だった。
 このままでは、玖珂と出会ってしまう。一人焦るのは自由だが、勝手な思考が和坂の脳内を駆けめぐる。いつも俺は冷静だっただろう、思考は意味も無くそこから始まる。冷静になれる事が取り柄だと勝手に解釈していた和坂だったが、特に女の子の事となると頭が回らない。一人で考える。どうして女の子の前だと頭が回らないのか、それは恋人と上手くいっていると心の底では思っていないから、いや実は女性恐怖症、そんな馬鹿な!
 そんな迷宮をさまよっているところで、次に来る電車のアナウンスと共に、駅のホームで一人、腹をくくった。吹き抜ける冷たい風と供に電車がやってきた。
 速度をだんだんと緩める。次第に空気の抜ける音と供に停止。人がわっと扉の前に集まる。降りる人はいないとみな知っているから、扉の前で待つ。開く、飛び乗る。今日は空いていた。車内には数人の学生とサラリーマン、中年女性が一人。
 いつもの、乗車側と反対の扉のポール脇。和坂はすぐに見つけた。
「おはよ」
 いつものように、日常を噛み締めさせてくれるかのように、玖珂はそこに居た、存在した。いつもと寸分変わらぬ形で。そして寸分変わらぬ、挨拶と供に。
「オス。おはよ」
 あぁ、これが日常だな。妙に納得してしまって、和坂は一人にやついているだろうと、口元を手で隠しながら、「風邪を引いたんだ」と、くしゃみの真似をして見せた。
「そう。それで、昨日の特撮特集、ホラー映画の、がすごいんだ。CGかと思ったら違うんだよ。特殊メイクとスモークと音楽と、ええと……」
 あぁ、玖珂だな。和坂の日常が一つ戻ってきた。単純に和坂の独り相撲だとケリをつけた。そして、この場所は、ただ玖珂の話を聞いているだけのこの場所が、和坂にとっては居心地が良かった。そういう関係だ、玖珂とは。

10

 和坂は竹元と喧嘩をした。和坂がお金にルーズなのを竹元が指摘しただけだ。和坂は自称理論屋のくせに、その上時間にも厳しいくせに、お金に関してだけはルーズだった。和坂自身、それは一人っ子として、両親共働きの家として育てられながらも、お金にだけは不自由なく育てられたからだと自覚している。それに、母親が働いているのも趣味にすぎない。食べたい時に食べ、着たい時に着て、眠りたい時に眠る。それに時間は守るけど、お金は気にした事がないのも事実だった。
 竹元は最近バイトをし始めたからか、お金にはうるさくなっていたようだ。「労働の喜び!」と言って、肌寒いからって缶コーヒーを買うのが楽しいようだ。さらには、ブラックしか飲まないらしい。
 きっかけは、土日はバイトで忙しいからと、金曜日の夜にデートを決行。折角だからとフレンチを食べようとした和坂に、ファーストフードで済ませようとした竹元が食いついた形だ。
 結局両者折れることなく、途中竹元の携帯に親からメールが入ってきたのもあって、そのまま別れる事になってしまった。和坂にしてみれば、自分がお金にだけルーズなのは仕方がない事で、それはお金に困ってから体験しても構わないだろう、そう思っていた。
 でも、喧嘩は喧嘩である。和坂は気づいているが、きっと竹元も気づいているだろうが、二人とも基本的に意地っ張りである。なかなか意見を変えたりはしない。どちらかが主張すれば、意見が合わない限り、とにかく対立する。和坂はそれが楽しいと思っているから良いのだが、竹元はそれを根に持つ事がある。登校時間の一件もそうで、時間などにルーズな割に、一度張った意地はなかなか取り消さない。
 だから、謝る時はいつも頃合いを見計らって同時に謝る。そうでもしないと、和坂と竹元の関係は続かなかっただろうと、和坂は考える。そのタイミングを計るのはいつも和坂で、それを今まで見誤った事がないのが和坂の自慢だ。
 竹元と会わない日常が増えるのも仕方がないかと、この際思う。と言っても、結局は意地の張り合い。そうやって和坂が冷静になれるのも、三日経ってからである。なにがともあれ少し時間が必要だった。
 学校帰りは、和坂も例外に漏れず自然男友達と一緒になる。竹元も同じで、同じ美術部なのに、男子グループと女子グループはわざわざ時間をずらして乗った。ちなみに男子グループの方が後である。
「タケっちとまた喧嘩だろ」
 ○○っちとは時代遅れだろう、和坂はそう小突きたかったが、竹元への当てつけも含めて「そうだよぉ」と怒りを込めた風に言ってやった。竹元の周りに女の子の集団が寄る。周りはいつもの事だと思っているに違いないと、和坂も竹元も思ってはいるのだが。

11

 ちなみに、和坂と玖珂が一緒に登校している事を周りの人間はほとんど知らない。理由は、和坂と玖珂の登校時間が通常より三十分も早いからだ。何故和坂がこの時間に来るのかと言えば、それはもう習慣としか言えないものであり、玖珂もきっとそのようなものだろうと和坂は聞かなかった。
 竹元と喧嘩して三日目。まだタイミングは掴めていない。しかも明日は土日である。この土日をどうやって有意義に過ごすかについて和坂は模索していた。とりあえず、土曜日は男友達と過ごす事に決めた。
 今日はいつもより混み合っていた。雨の日で電車を利用する人が多いのもあるだろう。車内独特の湿気と、この人間の密集はとても不愉快だった。必要以上の密度。和坂はまだ竹元とさえこんなに密着して居た事はないなと思っていた。なにとなく、雨で冷えたこんな日には玖珂の体温が感じられる、そのくらい車内は混み合っていた。この距離だと話す時は身長差のためか、和坂は見下ろし、玖珂は見上げる形になる。密接したプライベート空間、雰囲気は嫌いだったがこんな空間自体は嫌いじゃないな、そう和坂は思っていた。
 乗り換えの駅で人波に揉まれながら降車し、その時和坂は玖珂の姿を人混みに見失ったが、前をそそくさと歩く玖珂を見つけると、人混みを押しのけてそれについて行くのがやっとだった。
 乗り換えた後の電車もやはり混んでいた。どうにか、玖珂と供に車内の端の方へ移動できた。電車の連結部付近は比較的密度の小さい場所であった、それでも比較的に過ぎないが。ふと、途中玖珂と話していたすぐ前の座席が空いた。すかさず和坂は、男の意地とばかりに「座ってよ」と言った。それに玖珂は「いいよ。話しにくいから。和坂くん座ってよ」と、和坂は妙に納得して他の人に取られる前に座ってしまった。
 今度は和坂が玖珂を見上げる形になる。とたん男として情けない気もしてきたが、しばらくすると電車も空いてきて、お互いに隣同士で座って話していた。日常の一つだが、至近距離だった。
「先週公開の、なんだっけ、あの映画。そう七人の何とかの現代版って。それね、あのお昼の人がすっごい満足したって。任侠モノなんだけど、任侠モノってわたし見た事ない。バッサバッサ人を斬りながら、愛を語るのかな」
「違うと思う。今度見に行こうよ」
 自然と誘っていた。和坂は自分から出た言葉に自分で驚いた。今度は自然だった、竹元を誘う時ぐらいに。
 止まる時間。今度は和坂の思考自体も止まってしまっていた。だから、和坂は表情を変えないまま、玖珂をじっと見ていた。
「うん、そうだね」
 予想外の返事に、和坂の思考は再び沸騰した。
「おう。そう。そう。…そうか。…うん。じゃあ、次の日曜日、どう?」
 どうにか言葉にできた事を、和坂は自分を褒めていた。内心、素直に飛び跳ねたいぐらい嬉しかった。
「いいよ」
 即答だった。玖珂の表情はいつも玖珂が喋っているのと変わらない表情。
「オウ。そう…か。待ち合わせは十一時にいつもの乗り換えの駅でいいよな」
「いいよ。それでね、七人の何とかっていうのが、わたしのお父さんの大好きな映画なんだって、それで……」
 和坂は玖珂の話に頷くばかりで、もう聞いてはいなかった。頭の中は、ついに玖珂を誘ってしまった、誘えてしまったという事で一杯だった。今日の密接した雰囲気は、和坂をそんな気分にさせたようだった。

12

 日曜日、待ち合わせは十一時だからと、その駅に十時半頃到着するつもりで和坂は家を出た。この十一時は和坂がいつも竹元と待ち合わせる時に使う時間であり、大抵竹元は三十分程度遅れてくると分かっているので、普段ならこんなに早く出る事はない。だが玖珂が相手となると、はやる気持ちに背中を押されるように早めに出た。早く準備が整いすぎていて、家の中で行ったり来たりじたばたしていた程に。
 だが、和坂と玖珂は予想外の場所で出会う事になる。考えてみれば当然の結果かもしれないのだが、もともと待ち合わせ先の駅に向かうために乗る電車は和坂も玖珂も同じである。加えて、この時間の電車の本数はそれほど多くないとなると。
「あっ、おはよ」
 まだ和坂の心の準備ができていないまま、玖珂と出会うことになったわけだ。
「……オス。おはよ」
 いつもの日常の挨拶。場所と人は同じであっても、時刻と服装と関係が違っていた。今日は一緒に学校に行くだけではない、今日はデートだ。この時間席は普段より空いている、ガラガラなくらいに。だから自然、和坂と玖珂は少し間を空けて座った。それでも近い距離、いつもと違う服装、今日はお互いに私服だ。和坂は土曜日、つまり前日に男友達と出歩いた、その時に買ったジャケットを着ていた。玖珂の服装は、この前本屋であった時とは変わって、実に清楚な女の子らしい茶系でまとめたおとなしめの服装だった。もちろん、和坂は初めその格好に驚いたのだ。
「お祭りの出店で、昔だけどペットクジって知らない? 三百円くらいで、生きた動物がもらえるやつ。はずれだと、カブトムシがもらえるやつ、今じゃ高級だよね。わたしその頃、小学校三年生だったかな、ひよこ当てたの」
 いつもの玖珂は健在だった、和坂がほっとするくらいに。和坂は玖珂の顔を見ながら話せなかった。いつもの事なのに、恥ずかしかった。
「……で、それでどうしたんだ、そのひよこ、あっニワトリか。今でも飼ってる?」
「ううん。それよりも、お母さんに反対されたんだよ。家じゃ飼えないって。でも、どうしても飼いたいって言ったら、じゃあ学校でみんなで飼えばって」
 玖珂は昔話が好きだ。よく、小さい頃にあった面白い出来事を話していた。和坂は玖珂の事を良く知った家族になったような、そんな気分になる。もしかすれば、竹元の昔の事よりも玖珂の昔の事の方が和坂は知っているのかもしれない、そう思えるほどに。
 ただ、いつもの相づち。
「それで、わたしがひよこを持ってきたら、みんな、五人くらいだったかな、同じペットクジでもらったって言って、ひよこ持ってきたの」
「長生きした?」
「ううん、朝学校に来たら、冬の凄く寒い日。一羽死んでいるのを見つけたの。わたしが最初に見つけたんじゃなかったんだけどね、みんなショックで。それから冬休みまでの間に全滅」

13

 最近の映画は指定席となっている。早めに行かないと良い席で見られないと玖珂が言うので、ランチよりも先に映画館に来た。和坂はこの映画の終了が、あたかもデートの終了のような気がしていて、映画を延ばそうと考えていたが、玖珂は至ってマイペースだった。だから、和坂が逆らえるはずがなかった。
 日曜日ともなると映画館は混んでいそうなものだが、こんなお昼十二時頃の上映では人が少ないようだ。和坂は今度映画を見に来る時もそうしようと思った。たぶん今度は竹元が許さない気がしてならないが。
 上映開始のブザーが鳴るまで、玖珂の喋る調子は衰えなかった。せっかくのデートだが、雰囲気はいつもと変わってはいない、そう和坂は感じていた。ブザーと供に、玖珂は口を閉じた。今の和坂には喋らない玖珂の方が違和感があった。喋っていない方が緊張した。
 暗い室内、わずかに映る玖珂の横顔。和坂はそれが気になってしまって、玖珂は横目も振らなかったが、映画は上の空だった。ただ時間の経つままに上演が終了し、社交辞令のごとく和坂は感想を述べると、
「お父さんが好きそう」
 そう、玖珂は言った。もちろん和坂は玖珂の父親に会った事なんてなかったが、幾度と玖珂から父親の話は聞いていた。なんでも、釣りとパチンコが趣味というありふれた父親らしい。和坂自身海外赴任の父を持つためか、そんな父親の感覚なんてなかった訳だが。
 それから、和坂はこの前和坂が竹元と行きたがったフレンチレストランに玖珂を連れて行く事にする。これには玖珂はすんなりと同意してくれた。ビルの最上階とまではならなくとも、展望レストランと言うには相応しい高さにあるフレンチレストラン。玖珂が
「高くないの」というが、「今日、いっぱい持ってるから」と言って和坂は促した。小綺麗なボーイさんが迎えてくれる。すでに三時頃となると人は少なかった、窓際の席に案内される。実に運が良い。その景色に「うわぁ」と、玖珂が小さく漏らしたのを聞いて、和坂はしめたと思った。
「怖いくらい高い。これって落ちたら助からないよね」
「…助からないだろうな」
 あぁ、ロマンがない。一人和坂がぼやこうが、玖珂は外を見ながらいつものように話し出した。ただ今日はいつもと違う風景、その風景の話題で、玖珂は話し続けた。
「このエビ、おっきい。これもフランス料理? 違うね。このソースだけがフランスで、これなんだろう」
「それより、エビじゃなくてロブスターなんだけどな」
 食事代は割り勘とは言い出しにくくて、結局「奢るよ、誘ったの俺だし」と言い出した時には遅かった。和坂は今月購入予定だったCDを一枚諦めた。玖珂が、玖珂にしては珍しく小さな声で、「ありがと」と言った時には、和坂は満足した。玖珂がこのように照れるとは、和坂は思っても見なかったから。
 それから、和坂と玖珂は歩いた。玖珂が通りがかるお店に逐一コメントを付けるのを和坂はただ聞いていた。
 五時を回ると、流石に夕食も共にという訳にはいかなかったのもあって、「帰ろうか」と和坂が切り出した。玖珂は小さく頷いた。
 和坂が降りる駅で電車が止まると、
「じゃ」
「オウ。じゃ」
 いつもと全く変わらない、別れの挨拶だった。

14

 降車して振り返ると、まだ玖珂が和坂を見ていた。和坂が手を振ると、玖珂もおとなしめに手を振る。扉は合図と供に閉まり、そして電車は動き出した。遠ざかっていく玖珂を和坂は見ていた。玖珂も和坂を見ていた、きっと。
 玖珂との初めてのデート。それなりに楽しかった、そう和坂は評価した。
 でも、和坂が好きなのはやはり竹元なのだなと。玖珂は素っ気なさ過ぎる。その中で時折見せる仕草もかわいいと思う。でも、竹元ほど付き合いたいとは思わない。
 和坂は携帯を取り出し、椅子に座ってメールを打ち始めた。そのホームに固定されたプラスチックの椅子は冷たかった。 『ごめん』
 その三文字を竹元に送信した。
 もう日は完全に沈んでいた。まだ十一月の初頭だが、だんだんと寒さが増してくる、特に夜の。昼間はまだ温かいと何も防寒具を持ってこなかったのを和坂はちょっと後悔する。駐輪場の自転車はいつの間にか数を減らし、和坂の自転車だけがぽつんと残されている。こぎ始めると、風が顔に当たってさらに冷たかった。ずっと竹元にどうやって謝ろうかと考えながら、時折携帯が鳴っていないか気にしながら、できる限りのスピードを出して、何かを捨てようとしていた。
 もっと長いメールを送ろうか、直接電話しようか悩んでいる内に、結局、竹元からの返事はその日の深夜二時に来た。
『ごめん』
 三文字のメール。わざわざ件名の『Re:』を消してあるのが嬉しかった。
 ふぅ、和坂は大きく息を吐いた。今日一日の疲れがどっと出てきたようだ。再び竹元にメールを返す。今度のメールは、明日の放課後に出かけようというお誘いだ。すぐに返信が来て、和坂は来月買う予定だったCDをまた一枚諦める。
 いつも思う。このような『ごめん』だけの返事では何も解決していない。でも、解決していなくて良い。ただ、お互いがすれ違っただけ。お互いが衝突しただけ。お互いに話せるって事を確認するだけ。行事みたいなもので、お互いがそれを認め合って補おうとするだけ。それでよい、そう和坂は考えていた。気分は上々だった。
 気づくと、もう玖珂とのデートがかなり過去の事のように思えてくる。今日は今日で楽しかったから。でも、玖珂は和坂を見ていたのか。玖珂はいつも玖珂の見えるものの話をする、その中に和坂は含まれていたのか。……考えても仕方がない、そんな気がした。考えてはいるけど答えは出てきそうになかったし、どちらかと言えば答えを出したくないとさえ考え、結局和坂はそこで思考を止めた。
 夜勤で帰ってくる母のためと称して風呂を沸かし、暖かさを誰かのぬくもりにすり替えて、明日竹元をどこに連れて行こうか考えていた。