恋をするのも面倒で 第三幕

南 那津  2006/12

cast

米原槻人
ヨネハラツキヒト

潮崎琥撤
シオザキコテツ

五十嵐子織
イガラシシオリ

有沢もみじ
アリサワモミジ

船越聡文
フナコシサトフミ

服部涼子
ハットリリョウコ


「青春の日々に、乾杯!」
 明るい雰囲気の小さな居酒屋にて、グラスのカツンと鳴る音が、再会を告げる鐘となる。誰もが頬が綻ぶのを隠しきれない。時間は戻らないが、記憶と空気は時代を呼び覚ます。数えれば、それはもう六年も前のことなのに。
「そういうクサイ台詞好きだったよね、米原は」
 感傷に浸っている俺に、早速文句をつけるのは、いつの時代も有沢もみじだった。そして人目を気にせず大仰にジョッキからビールを流し込む。
「有沢は、そう言うところが好きだったくせにー」
 昔だったらこうやって茶化しはしなかったのに、五十嵐子織が言う。有沢もこんな反応するとは思っていなかったのか、面白くなさそうに、そうだったねと漏らす。
「もう六年なんだよな。あの日々から」
 潮崎琥撤が改めて言う。こうやって後から仕切りたがるのも六年前から変わっていない。四人が四人を目配せ合って、自然と笑みがこぼれる。酒癖が悪いのか有沢は机を叩き出した。
「信じられない。あたしたちってちゃんとセーラー着てたのよね」
「写真持ってきましたー」
 五十嵐がバッグから一冊のアルバムを取り出す。その最初の一枚の写真、そこには寄り添う二組の男女の姿があった。もちろん一組が俺と有沢で、もう一組が潮崎と五十嵐だった。セーラーと学ランの胸には卒業式らしく桃色のコサージュが付いている。

 今思うとおかしな話だが、その時は俺と有沢が、潮崎と五十嵐が付き合っていた。その過程には本当に色々あった、不思議なくらいに。

「うわぁ、本当にセーラー来てる」
「今でも着てみろよ。万が一、似合うかもしれない」
 さっきのお返しとばかりに有沢に言ってやる。
「いいよ。あたしは何着ても似合うから」
「うん、そうだね。きっと面白いよ」
 五十嵐がそんな判断を下したことに、さすがの有沢もうなだれる。
「なんだか、変わったな」
 潮崎が言う。もちろん五十嵐についてだ。
「そう? だって、六年も経ったのよ。変わるって」
「変わってない人たちもいるみたいだけどね」
「潮崎か」
「いや、お前だ」
 仲良く指を差し合う俺と潮崎。ほんとだねー、と五十嵐が楽しそうに笑ってくれる。
 だんだんと調子が昔のように戻ってきた。

 俺たちは六年ぶりに再会した。出会いは、高校三年の予備校であり、別れは卒業式だった。明確な付き合いがあったのは、ほんの一年足らずでしかない。その後の六年間は全く別の世界に住んでいた。
 比べ四人で秀出ていた有沢もみじは、そのまま六大学の一つに進学した。修士へは進学せず、幾分名の知れた企業にスカウトされたと言う。就職したと言わないところが憎らしい。今でも昔みたいに、自分の思った通りにならなければ気が済まないとばかりに活躍しているのだろうか。
 潮崎琥鉄は、有沢と同じ大学を第一志望としていたが、結局第二希望の俺と同じ大学にやってきた。だから、俺の大学時代はずっと潮崎とつるんでいた。だが、俺と違い潮崎は進学を選んだ。それも、こっちに帰ってきてそれなりに有名な私大の大学院にだ。話を聞くに、今は就職活動の真っ最中であるという。
 俺は、学部を卒業、そのまま地元の小さなソフトウェア開発企業に就職した。ようやく二年目に入り仕事が板に付いてきた頃だ。
 そして、五十嵐子織は、

「あっ、さとふみさーん」
 店に入ってきたスーツ姿の男の人を見つけて、五十嵐は手招きする。五十嵐の声が一段高くなる。俺はその人が誰だか聞いているが、有沢と潮崎には知らせていなかった。
 誰あの人と、有沢は俺に聞いてくるが、それももう分かっているような口調だった。
 にこやかな笑顔を向けたまま、五十嵐の頭の上にトンとハンドバッグを載っけて、
「妻がお世話になってます。子織の夫の船越聡文です」
「ど、どうも」
 さすがの有沢と潮崎も、スペシャルゲストの登場に、目を丸くする。
「やっぱり、薬指のリング!」
 手を叩いて有沢が言う。
「うん。私、去年の春に、聡文さんと結婚しました」
 幸せを分け与えたいかのように、五十嵐は本当に幸福そうにほほえんだ。



 聡文さんとは、すぐに馴染めた。最初のうちは話を振りにくく、四人で話をしていたが、やはり五十嵐、いや船越子織の話をし始めれば、すぐに輪に入ってきた。
「呼び方は旧姓で良いよ」
 潮崎の口から船越子織とフルネームで飛び出すと、さすがの五十嵐も照れるようだ。
「いつも、ご主人をなんと呼んでらっしゃるのかしら? 今みたいにさん付けじゃないでしょうね」
 二人の話に興味がないはずがない。こんな話をし始めると、有沢は止まらない。
「えっ、さん付けだよ」
「僕としては、呼び捨て希望なんだけどな」
 ここぞとばかりに自己主張する聡文さん。こういうところで遠慮なく発言してくれる気さくさは本当にありがたい。
「じゃあ、さとふみ?」
 と、上目遣いで主人を見る五十嵐。ほとんど見せ物のようで、残りの三人が笑顔を貼り付けたままの聡文さんを注目する。
「さぁ、今日は僕のおごりだー」
 結構頭の中が明るい人だった。
「家にそんなお金ないよー」
 この二人の掛け合いを見て、俺は結構お似合いなんだなと思いしめる。潮崎と有沢の二人もそう思っていたに違いない。

 そう、卒業時は、五十嵐は潮崎と、有沢は俺と付き合っていたはずだった。でも、その頃は仲の良いフリをしていただけなのかもしれない。当時は二人で居ることよりも、四人で騒ぐことの方が楽しかったのだから。
 だからこそ、俺と有沢は離れると半年ほどで話をしなくなった。きっと、必要じゃなかったんだ。そして、俺の中に何か分からない黒い物だけが残った。
 潮崎とも、昔の話はすぐにしなくなった。なぜかは分からない。

「お熱いことで」
 皮肉の一つでも言わなければお冷やだって沸騰する。呆れを通り越して楽しんでいた。
 聡文さんとは、男同士では仕事の話をお互いにして親交を深めた。
「僕なんて、要するにどさ参りですけどね。体力のいる仕事ですけど、毎日人と会うのは楽しいですよ」
 聡文さんは保険会社で営業をやっていると言う。
「俺なんて、すっごい不健康ですよ。毎日毎日コンピュータに向かってデスクワークですからね」
 俺もおどろおどろしく表現してみる。潮崎があからさまに嫌そうな顔をする。
「そう言うの憧れちゃうよ。ほら、地に足が付いてるみたいに。一日交代してみませんか? ピンポン鳴らしてあからさまに嫌そうな顔をされたときなんか、悲しくてつい妻に電話しちゃいますよ」
 男同士でこのような仕事の話に終始するはずもなく、しばらくすればテレビやら麻雀の話になり、今度一緒に遊ぼうという話になっていた。
 その間女性二人は、有沢が今の五十嵐の生活をどうしているかについて質問攻めにしていた。その度に、五十嵐は照れくさそうに答える。高校生活で一度も見せなかったような笑顔でだ。
「相当幸せなのね、五十嵐」
「……うん、そう、かな」
 そんな言葉を聞いた聡文さんは悪戯だろう、不意をついて五十嵐に抱きついた。五十嵐はきゃっと声を漏らすが、すぐに悪戯だと分かって、子供を優しくしかりつけるように聡文さんを制した。それに対して、目を点にして驚いたのは有沢だった。それは、何か悪い物でも見てしまったかのように。そして急に顔を伏せて。
「ごめん、あたし帰る」
 有沢が立ち上がる。
「お会計、これで払っておいて。おつりは良いから。今日は楽しかったわ。また誘ってね。じゃ」
 さっと一万円を机に起き、矢継ぎ早に出て行こうとする。
「有沢!」
 俺の張り上げた声は、店中に広がった。振り返ることはなかった。

「久しぶりだね、こういうの」
 有沢にしてはしおらしく言う。悪いが、似合わない。
「そうでもない。昔は、こんな二人で外に出かけるなんてあまりなかったし、あのときは受験生だったしな」
 わざとらしくため息をついてみせる。
「おかしな気分」
「……どうぞご自由に」
 もー、雰囲気が分かっていないんだからと、ふてくされる有沢。有沢も昔のような気の強さはあまり残っていないようだ。ありがたいようで、物寂しくもある。
 四人で、いや船越聡文さんも含めると五人で飲んだ日、有沢が場から逃げ出した日、それから一週間が経っていた。
 これはほんの三時間前のことだ。有沢から『今から出られる?』とメールが来た。驚いたが、仕事が終わってからと、素直に返すと、ここに来るように言われた。ここはこの明かりを抑えた雰囲気のあるこの居酒屋である。俺自身、有沢のことがこの前のことから気になってはいたが、実際六年間会っていなかったのもあって気にしないように努めてはいたのだ。正直、直接有沢から連絡があってほっとしていた。五十嵐だって、有沢が出て行ってから気が重そうだった。
「何か、話したい用でもあったのか?」
 ただ色の付いたお酒を口にして、お互い黙っていたので俺から声をかけてみる。こういう雰囲気は、昔から得意じゃない。
「ごめん、そんなんじゃないんだ。ただ昔みたいに話がしたかっただけ」
「もう、そんなに若くない」
「あー、そう言うとこ変わってない」
 うれしそうに笑う有沢。俺の方だって、こういう事を口ずさむ有沢も変わっていないと思うが、黙っている。
「なぁ、この前、どうしたんだ?」
「直球。このデリカシーなし。そんなんじゃ女の子にすぐフられるゾ」
 有沢自身がうれしそうなので良しとして。
「嫌なら聞かない」
「ここで潮崎くんなら、無理にでも聞き出すんだろうね」
「そうか? あいつが?」
 潮崎のヤツと比べられて良い思いはしない。俺は皮肉っぽく鼻を鳴らして抵抗してみる。
「ねぇ、米原」
 のぞき込むように、有沢は足の長い椅子を少し俺に近づけた。
「六年間、米原が何をしてきたか、話して。あたしが満足できるように」
 この女は偉そうに、俺にそう要求する。俺自身が、そうされることをそれほど嫌っていないのも問題がある。

 六年間と言っても、特に面白いことをしていないことを先に断っておいた。学生の間は潮崎とずっと一緒にいたこと。お互いに彼女がいた時期もあったが、遊ぶときはいつも潮崎と一緒だった。
「気持ち悪いぐらいに、一緒だったって言いたいのよね」
 そう言って、だらしなく口を半開きにして笑う。俺は口を閉ざそうとしたが、不機嫌なのが伝わったのか、続けて続けてと、急かされる。許してくれそうもないので、本当に面白くないぞと、さらに断りを入れる。
 有沢以外の女性と付き合ったのは、結局一回だけだった。潮崎はうまくやっていたみたいだけど。まぁ、俺の方はすぐにフられたのだが。
「見る目がなかったんだね、その人」
 有沢にそう言うことを言われても、全然ときめかないのはきっと本人のせいだ。
「……俺の愛情が足りなかったんだ」
「似合わないからやめて」
 有沢は笑いをこらえている。俺も笑ってもらうつもりで言ったのだ。口を大きく開けて下品に笑われる方が本望だ。
「もうしない。してやらない」
 愛想を尽かせてみる
「怒った? ごめんごめん」
 まだ笑いが止まらない様子で、誠意が全然足りない。こういうやりとりが、俺は嫌いじゃなかった。
「相変わらずだよな。有沢も」
「女の子にそう言うこと言うもんじゃないよ」
 もう女の子って年齢でもないだろと言いたかったが、止めておいて鼻で笑った。
「なにか言いたそうね。言ってみな」
 このまま有沢のペースに乗り続けるのも楽しかったが癪だ。それに、有沢が呼び出したこの店はそんなに大仰に笑ったりする雰囲気の店じゃない。
 こうやって何でも自分のペースにする有沢が、少しだけ、あくまで少しだけ懐かしく思った。
 でも俺が本当にしたいことは、昔を単に懐かしむことではない。俺が、六年間引きずってしまったこの思いの正体を知りたいだけなんだ。

 正直俺の中で、ある思い、情熱が黒く沈殿したのは、有沢のせいだと思っていた。

 こんな考えに至ったのだって、加納花菜と付き合って色々考えさせられたからだった。そして、その当人が今、俺だけを見つめている。
 俺は重たい口を開いた。
「どうして連絡くれなかったんだ?」
「それは本題じゃない」
 有沢は急に笑うのを止めて、口を結ぶ。
「わかってる」
 どうしても声が荒々しくなる。伏せ目がちになる有沢をにらむ形になるが、そうでもなければ有沢は話を進めない。
「優しくないんだね」
 今更知ったことではない。
「俺は有沢のせいで」
「あたしのせいで?」
 帰ってくる言葉はあくまで優しい。
「……」
 ここまで言っておいて、言葉に詰まる。
「あたしのせいで?」
 頭の中は、六年前の五十嵐のこと、有沢の言葉、そしてこの六年間の俺の姿が、ごちゃ混ぜになった写真となって積み上がる。俺のこの中から目的のないまま写真を探す。有沢の視線が今度は鋭く突き刺さっている。焦って、掻き乱して、でも言葉は見つからない。
「あたしのせいで?」
「……何かを失った」
「ふうん」
 その答えに満足そうに、有沢は……笑った。冷たく、寂しく。
 それに俺も俺で、今更怒りを感じたりしないのだからどうにかしている。
「それで謝って欲しいの?」
「もういい。もういい加減に、さっきの質問に答えろ」
 こう答える自分に怒りを覚える。

 俺はずっと有沢に問いただしたかったはずだ。
 先日、高校の仲間四人で集めるのに、最も苦労したのは有沢だった。潮崎とはずっと交友があるから問題ない。五十嵐だって、高校の頃の住所に電話をかけると、親が出たが、同窓会であることを告げると、すぐに伝言してくれた。久しぶりに聞いた五十嵐の声はすぐに昔を思い起こさせ、テンションがあがった。六年来の親友と話す、そのものの関係のまま、再会を果たしたのだ。
 有沢は、同様に両親に取り次いでもらったが、娘が会いたくないと言っていると言われた。そのときはショックだったが、二週間遅れて、突然電話をくれた。何も変わっていない、卒業の時のそのままの有沢だった。さすがに、俺でも無理をしているのが分かったが、俺は有沢を丁寧に気にかけれる程器用じゃなかった。

「理由なんてない」
「嘘だ」
 俺は即答してやる。
「米原に分かる理由なんてない。女は複雑なのよ」
「俺に分かるように説明できないほど、有沢は馬鹿じゃないはずだ」
 二人の場が凍りつく。有沢が目線を泳がせたので、俺も機嫌が悪いのを隠さない。

 結局、有沢とは、こうやって再会するしかなかったのだ。

「……あたしは、あなたを本気で好きになることができなかった。ただそれだけよ」
 目線が定まらないまま、つぶやくようにぼそりと言った。

 本気で好きになれなかった。ただそれだけ。
 有沢はそれだけの言葉で、片付けた。

「……なんだ。そんな事か」
 溜飲が急にストンと落ちた気がした。
「どうして、笑えるの」
 俺は笑っていたみたいだ。実際おかしくて仕方がない。結局有沢が用意できた答えが、本気で好きになれなかった、だ。そしてそれは、俺を六年間苦しめてきたものとは、全く関係のない、単純に、有沢と俺だけの問題だったのだ。
 有沢は表情からして良く分かっていない。俺は笑いを抑えられない。たまには逆の立場も良いものだ。
「有沢の話をして欲しい」
「急に何? 今話したでしょ」
「本題は、違う、だろ」
 有沢も、自分が言った言葉に罰が悪い。
「もう、話したくない」
「あっ、拗ねた」
 俺がわざとにんまりして指摘してやると、有沢も自分の言葉がおかしいのか、閉じた口の端が上がっている。
「昔はこんな関係だったっけ?」
「違うな。今だから、こんな関係なんだ」
 昔がどんな関係か分からないが、話を合わせてやる。、有沢は、突然満足そうに笑った。

 俺と有沢との仲は、意外なほどあっさりと修復された。
 俺は、もう有沢を許せると思った。

 五十嵐の夫は、とても気さくな人で助かる。潮崎が、試しにと麻雀に誘ってみると、のこのこと五十嵐を連れてやってきた。
 五十嵐は昔のことを全部聡文さんに話してあるのだろうか。いや、五十嵐が隠し事をするなんて、有沢のバックがない限りあり得ないように思う。それを受け入れて、聡文さんも俺と潮崎と付き合ってくれるのだろう。
 ところで、当の潮崎は今就職活動の真っ最中である。昨日も面接で検索のプログラムを書かされたと言っていた。就活疲れの潮崎の気を紛らわせるためにも、今日は遊ぼうと言うことになったのだ。
 面子は、とりあえず俺、潮崎、聡文さん、そして五十嵐で考えていたが、集まったところで五十嵐は麻雀のルールを知らなかった。そこで、俺は有沢ならできそうな、そして強そうな気がして、五十嵐に断って誘いをかけてみると、見事に釣れた。
「この前はごめんね。その時のあたし、幸せ恐怖症だったんだ。そう、ちょっと前にフられちゃってね」
 あまり上手い冗談とは言えなかったが、その言葉だけで有沢は何もなかったかのように輪に入ってきた。
「五十嵐はやらないの?」
「ごめんね。まだ覚えてなくて」
 有沢は女一人でちょっと残念そうだ。
 始めると力の差は歴然としていた。有沢と潮崎が二強となり、やや有沢の方が強いくらい。そして、この二人の心配事は、俺が相手に誤って振り込まないか、それだけだった。あまりにも惨めすぎる。
 だんだんと、有沢と潮崎の俺を見る目がきつくなっていく。聡文さんは終始にこやかで、三人の茶番を横やりを入れながら楽しんでいた。
「二人の猛獣が、一匹の頭の悪いウサギが、間違って相手のところに滑り込んでしまわないか見張っているんだよ」
 五十嵐に解説する聡文さん。聡文さんは、確かに『頭の悪い』と言った。それに五十嵐が楽しそうに、さとふみは何なの?と、尋ねると。
「僕は、恐ろしくて逃げ出した蛇。もう襲いかかる勇気なんか残っちゃいないんだ」
 駄目じゃない、と、笑う五十嵐。俺はこの二人を見ているだけで幸せになれそうだが、それは現実逃避でしかない。
「そういえば、五十嵐」
 有沢が突然呼ぶ。
「なぁに?」
 ごく普通に返事を返す五十嵐。そして、変わらぬ口調で、卓から目を離さないままに、
「ドレス、着たの?」
 その口調は楽しそうだ。それに対し五十嵐は両手を前に出して否定する。
「えー、そんなー、貧乏婚だし。式なんて挙げてないよ」
 有沢は大げさに驚いて。
「もったいない。絶対きれいだと思うのに」
 そして所狭そうにしているのは当の聡文さん。男三人目が合ってしまい、どことなく気まずい雰囲気が漂う。
「遅れてでも式、挙げちゃえば?」
「そうしたいけど。だんだん今の生活に慣れちゃって、今更って気もしてるの。でも、いつかは挙げてくれるんでしょ、聡文?」
 男三人で、どきっとする。目線だけで、結婚するのも楽じゃないなぁと、訴える聡文さん。
「よぉし、残りの三人の誰かが結婚したら、合同結婚式を!」
「これだから、男は駄目ねぇ」
 決死の聡文さんの言葉も、にやつく有沢に一蹴される。
「私が大学出てすぐだったから、お金無かったから。今だって毎月少ししか貯金できてないんだよ。だから私は、もう良いかなって」
「妥協しちゃ駄目よ、やっぱり」
「うん、分かっちゃいるんだけどね。そうよ、有沢、あなたはどうなのよ」
 今度は五十嵐が攻撃に出る。
「あたしは、キャリアだから。ロン」
 自慢げに胸をなで上げる有沢。振り込んでしまったのは、この俺である。やってしまった。
「米原、お前注意しろよ、このぉ」
 潮崎になじられる。聡文さんの表情を見ると、この人も分かっていないので同類だが、今回運が悪かったのは俺の方だ。
「やっぱり米原は甘いね。あたしみたいなキャリアとは違うんだから」
 もうこの二人とは麻雀をしない。いつもの潮崎はきっと手加減だったんだ。だが、今日は猛獣有沢がいる。
 東南戦を二回終えたところで、その間当然のように俺は有沢と潮崎に罵倒され続け、財布の中からは諭吉さんが二人の手の中に引っ越ししてしまった。やるんじゃなかった。
 そして、俺の反対を押し切って三回目に入ろう、と言うときだった。潮崎の家のチャイムが鳴った。
 潮崎が面倒そうに立ち上がり、玄関の戸を開ける。

「琥鉄、会いたかった」
 そう言って、潮崎と変わらないくらいの背の女が、家主に抱きついた。

 周りを含め、潮崎も驚きを隠せない。
「四年ぶり。本当に会いたかったんだから」
「涼子!」
 潮崎が遅れて抱き返す。
 俺は、四年ぶりという単語から、この女が誰なのか分かった。四年前、俺が加納花菜と付き合っていた、その同時期に、潮崎が付き合っていた女性。そしてその女性は、イタリアへ留学、そのまま定住してしまったその人だろう。
 四年ぶりの再会。その間、潮崎に別に女がいたという話も聞かなかった。ずっと交信があったのだろうか。潮崎からそんな話を聞いたこともない。だけど潮崎は抱き返した。
「俺も、……俺も、会いたかった」
 その声は、涙混じりだった。
「悪い。ちょっと出てくる」
「いいよ。俺たち、今日は帰るし」
 一番状況が分かっている俺が言った。他の三人も、顔を見ると同意しているようだ。
「悪い。この埋め合わせはする」



 五十嵐は聡文さんと自家用車で来ていたため、二人はすぐに帰った。聡文さんが車の鍵を開け、五十嵐は自分の居場所とばかりに助手席に滑り込む。こんな自然な姿を見ると、五十嵐は結婚したんだなぁと、しみじみ思う。
 なんて有沢に話してみると、案の定笑われた。
 俺と有沢は自然二人となる。住んでいる場所は離れているため、駅に着いたら反対方向だが、駅までの道のりは長い。数少ない街灯が長屋の続く道を照らしている。音は時折通る車の音と、屋根の中から漏れる団欒の音。それもわずかで、最も響くのは有沢のヒールがコンクリートを踏みならす甲高い響き。
 お互いに考え事をしていたのか、道半ばまでは無言で歩いていた。それを打ち破ったのは有沢だった。
「あの大きな人、誰か知ってる? 知ってるでしょ」
 何を根拠にしているのかは分からないが、そう自信ありげに言った。俺の顔はそんなに分かりやすいのだろうか。
「俺も本当かは分からない」
 俺の顔をのぞき込み、口を開くのを待っている。喋らなくてはならないみたいだ。
「詳しくはないよ、先に言っておくけど。潮崎って滅多に自分のこと話したりしないから、こんな話聞いたってのも一度きりなんだ」
「分かってるから、早く」
 別に楽しんで聞いている風はないので良しとする。言ったとおり俺の知っていることは少ない。四年前の夏のこと。潮崎が、彼女がイタリアに行くと言っていたこと。そのまま永住してしまったと言っていたこと。しばらくしたら音を上げて帰ってくるだろうと言いながら、毎日手紙を送っていたこと。
「そのくらいだな」
「あの女は、四年間も日本にいなくて、潮崎にも会ってなかったんでしょ」
 『あの女』という単語が妙に耳障りが悪い。
「ねぇ、なんて名前の人か知ってる?」
「知らないし、もちろんどんな人かも聞いたことがない」
 有沢はつまらなそうに。
「米原って、潮崎のこと、あんまり知らないよね」
「そういうもんか?」
「そうでしょ?」
 自信ありげに、今度は楽しそうに言う有沢。
「潮崎は、米原のこと、何でも知ってそうだよね」
 既に有沢の興味は移ったのか、俺からあの女について面白い話も聞けないと思ったのか。
「なんだ、そりゃ」
「二人の中って、そう言う雰囲気だと、あたしは思ってた。何年経っても変わらないね」
 相変わらずの有沢節。有沢だけが何でも分かった風に。昔から、有沢のこういうところも変わっていないように思う。そして、有沢はこのときが一番艶めかしくてとしていて、楽しそうなのだ。
 有沢は考え込むふりをする。目を細めて、身長差だけではなく上目遣いでこちらを覗いたまま。
「そう、米原は、わかってない、わかってない」
「俺だって、六年あれば成長してる」
 こんな無様な反応を、この有沢は一番喜ぶ。
「そうだね、素敵になったよ」
 そして、このタイミングで褒める。六年のインターバルに、俺はどうして慣れたのだろうか。
「有沢は、どうだろうな」
「なによそれ。米原に言われたくない」
「そうですか」
 この答えは、もちろん有沢にとって不服だ。俺はもう、有沢が持つ米原の像じゃない。
 それでも、有沢は動じた素振りを見せない。ただ、小さく一言、

「変わっちゃったね、六年で」

 と、どこか寂しそうに。そして有沢は、世間話に興じ始める。
 ただ、それだけの攻防。昔のような関係ではないことを、俺の方から有沢に宣言できたわずかな機会。
 そう、今でも有沢の方が上手で、だけど俺もそれに負けなくなってきて。俺も色々あったのだと、一人振り返る。
 今日の俺は、有沢が小さく洩らした言葉を聞けただけで、先日に引き続き、非常に満足して有沢と別れることができた。


「俺だって悩むことは、あるんだよ。お前がバグのない検索を作るくらいに。いや待て、それよりは多いな」
「あぁ。それで、やっぱ、この前のことか?」
 潮崎のジョークがジョークになってない。それに、潮崎の方から悩みを打ち明けてくるなんて、天地がひっくり返る思いだ。
 潮崎の前に昔の彼女が現れてから既に一週間が経っていた。その間、俺は気後れして潮崎に連絡を取れずにいた。その間にも、有沢に潮崎に連絡してみろとの催促が再三かかってきてはいたが。
 仕事が終わって眠りにつこうとしていたとき、潮崎から電話がかかってきた。正直驚いた。潮崎が電話なんて手段で連絡をよこすなんて今までになかったからだ。初めはとりとめのない世間話、次第に話と話の間に間が出てきて、本題に入らざるを得なくなってきた。これが今までのこと。
「別に、俺たちはそんなに気にしてないよ」
「わかってる。だけど、話さなきゃ駄目だろ」
 潮崎なりのけじめか、もといそんなものありはしない。久しぶりに真剣に話し出そうとする潮崎に、俺は身構えた。
「それで、なんだ」
「涼子が、イタリアに行った涼子が帰ってきた」
「四年ぶりに?」
「そうだ。四年、だ」
 潮崎の口から語られると、頭の中で反芻していた以上に、四年と言う言葉が重く感じられた。
「四年ぶりの対面はどうでした?」
「懐かしさのあまり、俺まで泣いてしまったよ」
「それは良かったんだな。名字は、なんていうんだ?」
「服部」
 冗談めかすかと思いや、キレがよい。
「大学二年の時だよな。その彼女と出会ったのは」
「そうだ。お好み焼き屋のバイト先で知り合って、後から同じ大学だって分かったんだ。そのときから、イタリアに留学するためのお金を稼いでるって言ってたな」
「なんでイタリアなんだ?」
「俺もよく知らない。地中海人になりたいとか言ってた」
「なんだその、地中海人って?」
「知らない。陽気な民族ってのは聞いたけどな」
 どうも話が進みそうにない。潮崎がためらっているのも分からなくもない。だから、俺が聞いていかなきゃいけない。
「ヨーロッパ人と地中海人じゃあ、なんか違うらしくて、源とか、本質とか、そういう究極的なものへの愛着を地中海人は生まれながらにして持ってるって」
「宗教?」
「そうかもな。まぁ、そういう民族なんだろ」
 潮崎はそんなことを話したいんじゃない。
「それで、服部さんはどうして欲しいって言ってたんだ?」
 潮崎の言葉が詰まる。電話だが、つばを飲み込む音さえ響くような空気。そして、

「一緒にイタリアに来て欲しい、そう言われた」

 それは予想でき、シンプルであり、だが持つ意味は計り知れない。待っている世界は愛しの相手だけではなく、広大な海を越えた見知らぬ大地なのだ。
「なんでだよ。イタリア行ったのなら、その地中海人と結婚すりゃいいじゃないか。なんで今更日本人のお前なんだ?」
「それはこっちだって聞きたい」
 潮崎の声に焦りが乗っている。四年間も離ればなれだったというのに、冷めていて当然のはずなのに、潮崎の声は熱い。
 ここで俺が聞くべき事は、
「それで、潮崎。おまえはどうしたいんだよ」
 ぶつけてやる。暫時の間。そして荒げて、
「わからない。わからないから、藁をも掴む思いでお前に電話したんじゃないか」
 そう言われたって、俺にかけてやれる言葉はない。できることは、ただ潮崎の言うことを聞いてあげるだけ。
 昔から、そう言う関係だったはずだ。アドバイスするのは俺じゃなくて、潮崎の方だ。
 だから、俺は潮崎の言い分を聞き出し続ければいい。そうすれば、潮崎は勝手に解決する。
「おまえは服部の事をどう思っているんだ?」
「どうって、どういう?」
「何でもいい。今でも好きとか、もう好きじゃないとか。分かれてからもっと素敵な女がいたとか。とにかく喋れ!」
「服部は、とても大切な人だ。今まで生きてきて一番と言ったって構わない。そのくらい魅力的で、俺は離したくない。でも、それ以外のすべてを捨てることが俺には、そんな勇気なんかありゃしない」

「じゃあ、次。服部に日本に残って欲しいって思っているんだな」

 潮崎の声が途絶える。潮崎が何かを考えている合図だ。
 一分間くらいだろうか、時間が経ち、突然潮崎の声がする。

「うん。それが一番都合がいい」

 今までの声とはうって変わった囁くような声。人に伝えるのではなく、自分の内側に向かって塗りつけていくような声。
「そうなんだよ、聞いてくれ」
 聞こえているのに伝えようとしない声。気味が悪かった。
「服部だって、結局はダメ元で俺に会いに来たんだ。だったら、俺だってダメ元でぶつかっていけばいい」
「そうか。まぁ、おまえなら何とかなるんじゃないか」
 正直、こんな潮崎に俺はおびえていた。潮崎は馬鹿だけど、冷静になるのはいつも馬鹿じゃないときの潮崎だった。
「相手は服部だからな。有沢よりやっかいな女だ。そうさ、ダメ元なんだ」
 だが、俺もどうにかいつもの雰囲気を取り戻そうと、
「おまえも、有沢と言い、服部と言い、なんでこんな大変な女ばっかり好きになるんだ?」
 馬鹿話の調子で降ってみる。いつもとは違い鼻で笑い、
「性分だな。俺、基本積極的じゃないから、そういう女に惚れてしまうんだろうな」
 静かに笑った、そんな声が漏れてくる。
「ああそうかい。じゃ、解決してないけど解決したみたいだし、切るよ」
 話を切りたかった。
「邪魔したみたいだな。悪い。明日も仕事なんだろ」
 内容はいつも通り。でも、何かが違った。
「はいはい。一個バグ残して来ちゃって、明日のビルドは俺がやる羽目になったよ」
 普段に努める。
「また、スタックの下限でも誤魔化したんだろ。じゃあ、今日はありがとうな」
「また、な」
「………」
 切れた。
 受話器をテレビの上の台に戻し、何かが吸い取られたように体が軽くて、吹かれて跳んで消えてしまわないように、すぐに布団をかぶった。
 そのはずが、自分で積極的でないといった潮崎が、積極的に何をやるのか気になって。俺の心配は所詮は他人事でしかないはずなのだが、なかなか眠りにつけなかった。

「ハロー。あなたが米原さん」
「はい、米原ですが、どちら様?」
 知らない番号からかかってきた携帯の着信を、ほんの弾みで取ってしまう。すると、英語教材の販売員のように威勢の良いかけ声がかかる。次の言葉を聞くまでは、ただ面倒だと思うだけで良かったのに。
「私、服部涼子と言います。私のこと誰だか分かりますか?」
「……潮崎の」
「そうです。あなた方が琥鉄の家で遊んでいたときに、乱入してきた女、それが私です」
 なんなんだろう。自分で自分のことを乱入と評し、実際俺だって間違っているとは思わない、そんな事をこともなげに喋られる。
 今はただ、これが潮崎の好きになった女、なんて言う妙な気迫だけが俺を支配していた。面倒だったし、怖くもあった。
「わかりました。あの背の高い方ですね」
「ええ、間違っていません。一致しましたね」
 どこかうれしそうに話しかけてくる。どうにかこの女性を思い出そうとする。脳裏に焼き付いた潮崎との抱擁。お互い別に流れていた時間の隙間を埋めるかのように、ひしとお互いがお互いをたぐり寄せるような。俺はいくらか嫉妬していたのかもしれない。
「今、お邪魔じゃないかしら?」
 ふと、自室の時計を見た。時間は既に二十四時。明日の出勤のためにはそろそろ眠らなくてはならない時間。
「用件を、手短に」
「私はあなたを潮崎の一番の親友だと聞いている。そこで、私に会っていただけないかと」
 突然の申し出に俺はどぎまぎしていた。
「俺に、潮崎への言付けでも頼むつもり?」
「いいえ、違う。ただ、私はあなたに一度会っておきたいだけ。本当にそれだけなんです。分かっていただけました?」
 理解しようという気なんて毛頭無かったが、ここは合わせておく。
「わかった。いつが良いんですか?」
 自然と敬語になる。
「米原さんの望む時間でかまいません」
「じゃあ、明日の夜七時に。S駅の近くで」
「ありがとう」
 そこで、一方的に電話が切れた。この女もまた、身勝手な女だと思った。
 このことを潮崎に言うべきなのか悩んだが、結局言わないことにした。特に意味はない。あるとすれば、俺も少し潮崎が惚れた女性に興味があったからなのかもしれない。それでも、他人の恋愛なんて面倒には変わりはないが。



 待ち合わせの駅に着くと、服部涼子の姿は一目で見分けがついた。街灯の眩しいくらいの明かりの下に、その長身の女性はただ立っていた。確か潮崎とほぼ同じ身長、潮崎自身それほど身長がある方ではないが、成人男性の並以上は確かにある。
 だが、それ以上に気になったのは、その身長の猛々しさと同様に、ジーンズに、柄物のシャツを羽織っただけという、粗野な格好だった。
 ずんずんと近づいていき、目線があったところで手を振る。
「待ちました?」
「こんばんは。米原くんで間違いないわね。その顔だとなさそうね。そういや夕飯まだですか?」
「まだですね」
 このときから良い予感などしていなかった。できるなら、この場から逃げ去りたかった。だけど俺はそんなことができるほど、上手く立ち回れる男じゃない。
 その女が、行こうと、言い出したので、俺はただ付いていくだけだ。別に何かを期待していたわけでもないし、ただ流されるままに、ほんのちょっとした、本当にわずかな興味でしかないのだから。
 どこにでもあるような、会社帰りのサラリーマンが寄るような小さな居酒屋。ほとんど洒落っ気もなく、カウンターの中で初老の夫婦が、同じ世代のお客さんと楽しそうに会話している姿がある。そのお客さん以外に客は、奥の座敷に一組、俺たちと同世代のサラリーマンがいるのみだった。服部は俺に気遣うことなくカウンターの一つに座った。
 おばさんがこちらに来ると服部が、ちょっと小腹が空いたので、何か簡単に出してもらえます、と言った。おばさんはメニューを指さして、これとこれでよいかと服部に確認して、はい、あと生二つでお願いしますと、意味もなく笑顔で返した。
「ごめんね、お店、適当過ぎたね」
「あぁ、気にしてないです」
「でも、しばらく日本にいないと、こういうお店の方がわくわくするの」
「そうですか」
 店主がくしゃみして、客に気を遣われていた。嫌になるほど生暖かかった。
 しばらくは服部の、日本の水が美味しいのは本当だなどと言う話を、勝手にするので頷いていた。
 生ビールが運ばれてくると、今更ながら俺にこれで良かったかと確認してきて、頷くしかなかった。そして、小さく乾杯した。
 俺は思わず冷たいビールをグビグビとほおばってしまった。服部は、少し口をつけると、
「日本の苦いビールが、いつの間にか飲めなくなってる。まぁ、日本にいるのは短いから良いんだけどね」
 と言って、それ以上口をつけることは無かった。良く分からないが、本人少し残念そうだが、その後日本酒を頼み一人ちびちび飲んでいた。
「それで、どうして俺に?」
 こんな雰囲気にいつまでもいるつもりもなかったので、早速本題に取りかかることにする。服部の相手をきちんとしてあげる必要は、俺には義理くらいはあったのかもしれないが、まぁいい。
「そんなに思い詰めないで。ただ、こうやって話してみたかっただけだから。あなた、潮崎の学友なんでしょ」
「どのあたりまで聞いてますか? 潮崎のやつに」
 親友の彼女と一対一で話をするのもおかしな気分である。
「ええと、高校時代から一緒で、予備校も一緒に行っていて、第一志望に落ちたせいで、大学でも一緒になって、ずっと腐れ縁やってる、って事くらい」
「高校時代の細かい話なんかは?」
「全然、琥鉄話さないじゃない?」
 その目は期待に満ちあふれている。
「つまり、俺から高校時代の潮崎についてお話しすれば良いんですね」
「えっと、そう言う事じゃないの。琥鉄の過去は、ほら、琥鉄と一緒にいれば自然と分かってくるものじゃない」
 そう言うものなのだろうか。
「じゃあ、何について聞きたいんですか?」

「あなた、米原くんについて」

 意味が分からない。
「俺について聞いてどうするんですか」
「私たち、何でもないんだから敬語止めて。良い?」
「はい」
 その注意する口調も、戒めるようなものではなく、誘いかけるように優しいものだった。
「私はね、米原が今までどんな人と付き合っていたか、その人たちに直接触れてみたい、ただそれだけなの」
 ハイそうですかと、割り切って良いものだろうか。
「日本にいるのが短いなら、ずっと潮崎のそばにいるもんじゃないですか?」
「敬語は止めて。あなたと琥鉄が同い年なら、私、これでも一つ年下よ」
「はい」
 この姿と態度で、一つ下など言われても実感は沸かない。
「と言うことで、私はあなたと一緒に楽しくお酒が飲めればそれで満足だから、ね」
 そう言って、日本人離れした、どこかシニカルな笑顔を俺に向けた。
 それからは、服部がイタリアで出会った様々なものについて色々話してくれて、その合間に俺の普段の様子を話したりしていた。次第にお酒も回りり、服部が自分で喋りたがるくせに、聞くとき聞き上手なのもあるだろう。だんだんと話題に尽きなくなってきた。
 気づいた時には自分から、六年前の出来事について話していた。しかし、俺自身を変える大きな出来事であったかのように思えたそのことも、喋ってみると、なんて小さな事だったんだと、若気の至りでかわいく思えてくる。それに服部が本当にドラマみたいだねと、軽く茶々を入れてくれたのも良かったのかもしれない。心に奥に溜まっていた黒い何かを、少し削ぎ取ってくれたような気がした。
 服部という人も、いろんな事を気兼ねなく話してくれる人である。調子に乗って、潮崎との出会いを聞いてみると、期待通りちょっと恥ずかしそうに目を伏せながら、大学時代のアルバイトの事を話してくれた。結局俺とこの人も、同じ大学出身と言う事になる。潮崎が前に少し話してくれたとおり、アルバイトの仲間として知り合い、合うのを重ねていくたびに親しくなったという、あまり特徴のない話だった。あの馬鹿をする潮崎のことだから、もっと面白くあっても良いと思うのに。
 そこで、服部に潮崎の何を好きになったか聞いてみると、
「そうだね、何も動じない割に、いろんな事考えてるところかな」
 と言った。もう答えを用意してあったかのような回答だった。
 ちなみに、どうやって俺の番号を知ったのかと尋ねると、
「琥鉄の通話履歴の最初の方に載っていたから。それと、あなたの名前は琥鉄から聞いたことがあったし」
 と答えられた。琥鉄にプライバシーはないのだろうか。
 そんな中で、気づかないうちに時間も過ぎていき、壁に掛けられた安物の時計を見ると、二時間以上話し込んでいた。俺が時計を気にしたのを悟ってか、そろそろお開きにしましょうかと、服部の方から言ってきた。
「もう、潮崎に近かった俺と話すのは、十分って事で?」
「そうじゃないけどね。もっとお話したいけど、私の目的は達したし。ええ、安心したわ。潮崎の近くにあなたが居てくれたんだと分かって」
「どうも」
 話の端々にも、四年間も潮崎と会っていなかったにも関わらず、潮崎対する言葉が響いてきた。
 俺と服部は、また同じ駅で別れた。
 印象に残ったのは、服部の姿だけではなく、やはりその活動的な性格にあった。今回俺の元をわざわざ尋ねてきたのもあるが、単身イタリアに行ってそこに永住することを決めたことが大きい。結局服部がイタリアで求めたものは何だったのかは分からなかったが、ただ俺には真似できない生き方に、憧れを持った。
 潮崎もやはりそう言うところに惚れたのだろうと思う。そして服部も、潮崎のことをよく知っていた。
 俺は、実に晴れ晴れとした気分で帰宅した。
 そして、アパートの戸を重苦しい音で開いたときに、明るい部屋に闇を灯すかのように気づいた。俺は、今日服部が俺に会いに来た理由についてはきちんと聞いた。だが、服部が今、日本に帰ってきた理由については聞かなかった。
 あぁ、失敗したな。潮崎のためにも、そのことだけは的確に聞くべきだったんだ。
 だが、考えれば一つの答えは出ている。服部の口ぶりからして日本に残るつもりはない、そして今でも潮崎を愛している。
 あぁ、これは間違いなく、潮崎の言っていた通り、潮崎をイタリアまで本気で連れ帰るつもりなんだと。

「やっぱり」
「なんなのよあの女は。私は全力で潮崎を愛してますって。潮崎と一緒にいたあたしに会っておきたいって、あの女は潮崎のストーカーか、マニアか!」
 発狂しかけていると言っても、有沢の場合はそんな態度を取って見せてるだけなんだろうけど。
 服部の口ぶりからするに、俺以外の琥鉄に近かった人たちにも会ってくるのだろうと思い、まさか有沢にはと思って有沢に電話をかけてみると、案の定だった。
 今日、俺が有沢と落ち合ったのは、前回連れられてきたお店と同じ。この店内は雰囲気と言っても、少し暗すぎるんじゃないかと思う。ダークブルーの明かりが灯るだけで、正直相手の顔もよく見えない。
「でもやっぱり、かっこいいよな、生き様とか」
「米原はあんな大女が良いわけ。あたしみたいなひ弱な小動物系じゃ満足できないって言うの」
「意味が分からないし。それに有沢は小動物系なんかじゃないだろ。どっちかって言うと食らいついてきそうだから」
 面白くなって笑う。あらそうかしらねと、有沢も笑う。こうやって有沢と話しているのも悪くない。
 ただ今日の有沢が、笑った後に小さく溜息をついていたのを俺は見つけてしまった。今日は前と違って楽しい話題ばかりだ。潮崎と服部の関係を勝手に想像してみたり、五十嵐と聡文さんについて勝手なことを言ってみたり。その合間に吐き出される息。それは有沢が無理をしているのか、演出しているのかは俺には分からない。
 だけど、気遣ってやることぐらいは。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「やっと聞いてくれた。一体もう何分経ったと思っているの! 相変わらず優しくないのよね」
 気遣ってやるんじゃなかったと、後悔しておこう。
「それで、話したい事ってなんだったんだ? 服部のことか?」
「そんな女関係ない」
 それ以外に思いつくものもなかったのだが。
「悪い。じゃあ、なんだよ」
「そう言うとこ変わってないよね、米原は」
 またそう言う話か。好きなのは分かるが、もうこりごりだった。
「で、なんなんだ。正直に話してみろよ」
「どうしてそこで優しくできないの」
 逆に怒られる。俺が有沢に優しくしなきゃならない理由なんて何一つ無いとも思うのだが。
「精一杯してるつもりなんだが」
「余計な一言、それ!」
 黙るしかなさそうだ。何を言っても、有沢をカッカさせるだけのようだ。
「ほら、そこで諦める」
 どうすりゃいいんだよ。
「有沢は俺をおちょくりたいだけなのか」
「そうじゃないけど。これは米原が悪イ!」
 さすがにこれで俺の堪忍袋の緒が切れた、訳でもなく、もう俺は笑うことしかできなかった。言ってしまえば、怒るのもなんだか面倒に思えてきた。
 気分直しに、俺は取り敢えず新しい飲み物を注文しようと、カウンターの先の店員に声をかけた。すると、有沢も急いでメニューを開いて、俺と違うものを注文した。
 飲み物ができるまで、有沢は黙っていた。だから、俺も黙っていた。二つの飲み物が同時に運ばれてくると、お互いに一口飲んだ。俺は頃合いを見計らって、一言、どうぞと言った。
「ありがと。米原って怒らないんだね」
 有沢の口調が落ち着きを取り戻している。
「怒るよ、たまには」
「どんなとき?」
 少し考えてみたが、近頃特に怒ったことがないことに気づき、誤魔化すことにした。
「潮崎が結婚するとき。祝ってなんかやるもんか」
「怒るんだ?」
「怒鳴りつけてやるね」
 娘を可愛がる頑固オヤジみたいと、小さく笑う有沢。いつも仕草が男勝りな有沢も、こうしていれば十分かわいいのになと思った。
「それで、どうそ」
「うん、仕事の話なんだ」

 有沢が大学を出てから、すぐに地元で名の知れた企業に就職したことは聞いている。在学中にいくつかの資格を取得していて、就職だが実質スカウトだったと、自慢げに話していたのはまだ新しい。
 有沢の悩みは、その仕事のことなんだそうな。今のところ仕事は順調であり、既にキャリアとしての道を歩みつつあると。
 しかし、最近になって状況が変わってきたという。この企業、地元で名が知れていると言っても、現会長が一人で築きあげ、地元密着型として発展してきた背景がある。今や社員二千人を抱える企業であるが、内部状況は社長のワンマンらしい。
 有沢はここの会長に気に入れられ、二年目にしてあるプロジェクトのサブリーダーに抜擢されたという。これを、有沢はキャリアと言っていたらしい。
 ところが、ここで話が変わってくる。

「このあたしに、秘書をやらないかって言うのよ。技術畑の人間であるこの私に」
 有沢の熱が上がってきている。誰にも相談できずにいたのだろうか。
「秘書なんてできるのか?」
「知らない。そんなこと。興味もない」
 まだ話が見えてこない。
「なんだって、有沢に、秘書なんて」
「そう、似合わないでしょ」
 これには同意する。
「誰かの付き人やってる有沢なんか想像できない。有沢に付き人がいるには違和感ないけど」
「調子に乗りすぎ」
 真顔で戒められる。
「ハイ。それで、そんな話、断るだけじゃないのか?」
 有沢の表情が陰る。
「そう、断るんだけど。ほら、誰の秘書かって言ったら、副社長、つまり会長のお孫さんなんだけど、その……」
 言い淀まれる。
「その、なんなんだ?」

「言い寄られたの、その副社長に!」

 ……。意外すぎる回答だった。
 何が意外かと言えば、有沢が人のものになる、その概念そのものが意外である。おかしすぎる。
「そこで笑うんだ。米原は」
 どこか諦めた有沢の声。表情に出したつもりはなかったが、隠しきれなかったみたいだ。
「だって、さっきも言ったけど、有沢が誰かの付き人やってる姿が想像できないんだってば」
 本当に正直なところだ。
「米原ってあたしのこと、そんな風に見てたんだね」
「当然だろ。で、結局その話は断るんだろ」
「えっ、あっ、それは、ちょっと迷ってる」
 急にしおらしくなる有沢。
「どこに迷う要素なんかあるんだ?」
「わかってよ。要するに対外的なものよ。今のプロジェクトのサブリーダー任せてくれたのだって、副社長だし。プロジェクトのメンバーもみんなそのこと知ってるから」
「妬まれてるのか?」
 想像できなくもない。
「その逆。もう周りがそんな雰囲気になってきているの」
 やっと話の全貌が見えてきた。この話しぶりだと、有沢自身副社長のことを、悪く思っている様子はないらしい。だからこそ、困っているのだろう。実際断らないのも悪くはない。
 自分の本心に、いまいち素直になれない、ただそれだけのように思える。
「副社長にもちゃんとそのこと言ったのか?」
「言ったよ。そしたら、口説かれちった」
 もの恥ずかしそうにする有沢。有沢にこんな表情をさせるなんて、呆れた。
「かっこいいんだ、その副社長」
「ええ。全然お坊ちゃん然してなくて、長年社会の荒波を見てきた感じ」
 副社長のことを言うとき楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「お年は?」
「四つ上の二十八」
 その後も有沢は副社長の良さを、結構積極的に話してくれた。とても不思議な時間だった。有沢が、男について語るなんて。だけど、それに俺のコメントできることなんて数多くはないし、そんなに興味もない。
 ただ、この期に及んで有沢がうれしそうに話すものだから、話を切りにくかっただけのこと。
 結局俺が思ったことは一つ。
「俺よりは、やっぱり五十嵐に相談した方が良いんじゃないか。結婚の先輩だし」
「やっぱりそうかな。なんだか気が引けるんだよね、五十嵐に話すのは」
 まだ六年前を引きずっている人が一名。
「もう終わったことだろ。五十嵐だって今は二人で幸せにやっているんだ。この幸せを分けてもらったって、罰は当たらないだろ」
「相変わらず言い方古いね」
 五月蠅いと、最後に一喝してやった。

 曖昧な区切りに過ぎなかった成人なんかではなく、正式な社会人の枠に収まり、ようやく一年半が経とうとしている。
 今日をもって、一つのプロジェクトに終止符を打つことができた。半年以上も関わり続けた今、もうその言葉を聞きたくもない。稼働し始めて数日もすれば、毎度のバグレポートの処理に追われるなんて、今は忘れさせて欲しい。
 学生の時には、学期という明確な区切りがあった。今にすればなんてかわいらしい単位だろうと思う。誰もが当然のようにその仕事は半年で終わるものと思いこんでいる。現在は、不定形な割に明瞭な『納期』ばかりが一つの単位となる。最も違うのはそれが終わっても解放されないこと、それと後で怒られることだ。そして残念ながら、俺の会社はまだ好景気だった。
 一つの仕事に区切りが付いたのには間違いなかったので、今日はチームで飲み会となった。この情報システムの世界で働く人は皆若い。一番年長のリーダーの橋部さんでも、まだ幼稚園に通う子供を持つ三十三の男だった。残りは俺とそれほど年が離れていない。だから、働きやすいと言えば働きやすく、だが支柱になるべき頼れる人はいなかった。どんと構えて若造を睨む上司はいなく、上司の相談に乗るのはむしろ発想豊かな若造達だった。みんなで手探りで業務をこなしていく感覚は、居心地が良かった。実の所は、かなり危ない橋を渡っていたのかもしれない。
 繁華街へ繰り出すその道中、有沢からメールが来た。今日一緒に飲まないかというお誘いだったが、ごめん抜けられないと、返した。
 そう言えば最近の有沢は事ある毎に、いや、事がなくても誘ってくる。有沢の方は実は上手くいっていないのかもしれない、なんて思ったが、それをいつも無駄な心配にしてくれるのが有沢だ。
「若いの、逢瀬の契りか?」
 いつも意味のない台詞で茶化してくるのは、この会社では一年先輩の山下さんだ。年は俺より五つ上で、見た目もそんなに変わらない。今でも前の会社の悪口を良く俺に溢してくる。
 こっちも冗談めかせて、
「元カノが最近になって連絡寄こすようになったんです。こっちにまた、鞍替えしようってんじゃないでしょうかね。フられたの、俺の方なんですよ」
 と言うと、山下さんは悟ったかのように言う。
「女に憑かれているうちが花だよ。小汚い女でも、なでてみると意外とかわいい声でなくもんだ」
「だから、山下さんはろくな女に出会わないんじゃないですか」
 つい思ったことを言ってしまう。
「分かってはいるんだ。だけど、米原君だって、付き合うなら自分より頭の回らない女の方が良いんじゃないか」
「バカな女だって、勘だけは鋭いぞ、山下」
 横槍を入れるのは俺らのチームの紅一点、梅宮さんだ。この人は決してお茶くみなんかするはずもなく、バリバリに技術職であり、チームの副リーダーでもある。姿、性格ともに、無骨な理系の女の典型のような人だった。そして、勤めて既に六年になるベテランだ。
「あのなぁ、梅宮みたいなのは女って言わないんだ。せめてアピールできるもんを持て、アピールな」
「男の皮しかかぶってないようなヤツがよく言うよ」
 そして、山下さんと梅宮さんはこんな感じでとても仲がよい。俺の同期達の間ではこのまま結婚するんじゃないかって話が出ている。本人達はいつも否定するが、今日の飲み会で問い詰めてやろうと、同期の川田と相談していた。
 行きつけとなっている、炭火の焼き鳥屋。奥の座敷に通され、並んだテーブルに、みな定位置に腰を下ろす。リーダーから乾杯の合図があった後、山下さんが再び絡んできそうだったので、川田のところへ作戦会議に出かける。
 少々丸みを帯びた大柄な川田とは、同期のためか、入社当初は良く二人で飲みに行った。最近はチーム内の誰とも仲が良くなったためか、二人だけで飲みに行くようなことはなくなった。だけど、今一番付き合いがあるのは川田だった。そう、立ち位置は丁度学生時代の俺と潮崎のようなものだった。
「お疲れ」
「お疲れや〜」
 二人でひっそりとグラスを鳴らし、ビールをあおる。お互いに譲らず、一気にのどに流し込む。グラスを降ろしたのは、川田の方が早かった。
「一緒にしたのもこれで四件目やなぁ。わいら二人でそろそろ独立できるんちゃう?」
「あと梅宮さんがいたら、完璧、だろ」
「そら無理や。なんだかんだ梅宮さんだって、山下さんがおらんと効率下がってしまう」
「じゃあ、あの二人で独立か」
 などと、冗談を言い合う仲だった。それが俺には居心地が良く、いつまでも惰性でいられるような、そんな間柄だった。俺だって、最初の頃はキャリアを積んで他の会社に転がりこむ事も考えていた。だけど、今の環境が居心地良すぎるのも問題がある。
「そういや、高校の同窓会やるって言ってた話、どうなった? なかなか一人が捕まらへんゆうて」
 前にそんな愚痴をこぼしたこともあったなと思い出す。
「あぁ。ちゃんとやったよ」
「おやっ、元カノもきちんと来たん?」
 どうも、そういう話はどこに行っても喜ばれるらしい。リーダーの橋部さんまで、なんだ? 付き合ってる人いるんか? と、話に混ざってくる。
「来たよ。最近になって良く連絡取るようになったし、結構頻繁に会ってる」
「で、米原はその気なん?」
 川田がいやらしい目を向けてくる。酔った野次馬は手のつけようがない。少しくらいならと、俺も腹を括って話してやろうと思う。
「六年も会ってなかったら、もう他人かなとも思ってたんだよ」
「会った瞬間にどっかーんってヤツか」
 川田が大げさに両腕を広げて表現する。それを見て、橋部さんが笑い、続ける。
「六年、でも、昔付き合っていたんだよね。だったら、結構思い残ってたんじゃない?」
「そうですね。会ったら、とても懐かしくなりました」
「やっぱ、より戻すんか?」
 そう言われて、そこまで考えたことがなかったことに気づく。
「……分からないな。昔みたいに、強烈に好きだ、なんて感情はわかないし」
 ここで橋部さんが溜息をつき、青いなぁと、つぶやく。
「何が青いんですか」
 さすがにそう言われては、苛立った。ただ、それこそが俺の悩みなんじゃないかと、直感がそう告げていた。その橋部さんも、恥ずかしながら俺がこうやって突っかかってくるとは思っていなかったらしい。
「いやぁ、誰かを好きになるって、若い頃は君たちみたいだったなんて思ってね」
「どういう事ですか」
「んー、なんていうかね。積極的になるとか、そういうものではないよね」
「さすがに年増の言うことはちゃうねぇ」
 川田が茶化すと、橋部さんは乾いた笑いを残して、それ以上喋ってくれなかった。俺はそれ以上喋って欲しかったが、タイミングが掴めなかった。
「それで、他にも一組付き合ってたんやろ。どうなってたんや」
 川田が突然俺の話に戻してくる。そんなに面白いとか、変わった話でもないと思うのだが。
「あぁ、その女の方は、聞いてくれよ」
「なんや。ちゃっかり子供おったとか?」
 ちゃっかり、橋部さんも聞いている。
「別の男と既に結婚してた」
「それで男の方は失意のどん底自殺志願とかなったんとちゃうやろね」
 川田は楽しそうだ。
「あいつは、今就職活動してる。あいつと、大学も一緒だったんだし、あいつが別の女と付き合ってたことも知ってる」
「はいはい、だんだん絡んできましたね」
 橋部さんまで囃し立ててくる。
「そう、その女は、外国に行っちゃったんですよ。それで、最近になって、三年ぶりに帰ってきて、まぁ俺の目の前で、まだ熱々ぶりを披露してくれたんですよ」
 口が勝手に喋り出す。目の前で起こった当人にしてみれば結構ショッキングなことだったんだが、こうやって喋ってみると、この二人の反応通り、オチのないお昼のワイドショーにしか聞こえない。
「すげぇ、ドラマみたいやな」
 川田は無責任に笑う。
「えっ、その男は、君と同じ学部だったのかい?」
 突然、橋部さんが口を挟んでくる。
「そうですよ。あいつ、M大の院行ったんです。同じ、情報システムですよ。今就活してますけどね」
「行くとこなかったら、ここを勧めておきなさい。君より優秀なら歓迎するから」
「はい、今度連絡してみます。きっと来ないでしょうけど」
「高校、大学、職場、これ以上の腐れ縁なんてないわな」
 川田は大分お酒が回っているようで、何がおかしいのかゲラゲラと笑い転げている。格好のつかない下世話な笑い方だ。つられて、俺も声を上げて笑う。
 今、俺が過ごしているのはこんな環境だった。自分と似たような人たちの中で、こぢんまりとシステム開発に取り組む。悪くはなかったし、むしろ充実しているのかもしれない。
 ただ潮崎なら、絶対に俺にこんな姿を見せないなと、思った。

 二週間ぶりに顔を見せた潮崎は、ひどくやつれていた。もちろん就職活動でこうなる潮崎なんかじゃない。目の前に服部涼子がいる、ただそれだけで潮崎はこうも変わってしまうのか。
 俺はただ少し気になって潮崎に連絡を取ってみただけだった。だけど、その変貌は声を聞いただけで瞭然だった。
 今一人かと尋ねると、すぐに潮崎の住むマンションへと足を運んだ。その間も、俺の方から潮崎を気にかけるなんておかしな話だと思った。どうせ気にかけられるなら、俺の方のはずなのに。マンションの扉を叩くと、すぐに潮崎が出てきて、そして、

 俺に微笑んだ。

 気持ち悪かった。おどけて微笑んでいるわけではない。いつもみたいに俺をバカにするために微笑んでいるわけではない。方向性もなく、単に微笑んでいるのだ。それは、強い呪縛から解放されたかのように。
「入れよ」
「おう」
 二週間前に訪れた潮崎の部屋は、いつもよりも片付いていた。台所の横に積まれていた資源ゴミが消え去り、所々四散していたレポート用紙の切れ端は消え去り、なにより布団の姿が見あたらなかった。いつもなら、押し入れを整理するのも面倒だと、部屋の隅に折りたたまれていたはずなのに。
 ちゃぶ台の前に座り込むと、お茶が出てきた。そのくらいは潮崎だって出してはくれるが、今日は氷が入っていた。
「何があったんだ」
 台所で、一人分の洗い物をする潮崎に声をかける。
「何もないさ。生まれて初めて挫折を味わったくらいかな」
 返答は、言葉はいつも通りだが、息は明らかにトーンダウンしている。
「就活、忙しいのか、やっぱ」
「そうでもない。ここで一生働くのかと思うと、結構うんざりするところばかりだからな」
「何様だよ」
「結構」
 言葉ばかりはいつもの潮崎だが、本題はこれではない。
「それで潮崎、服部さんとは、どうなんだ?」
「俺がお前に相談するのか?」
 洗い物を終えて、潮崎もちゃぶ台の横に腰を下ろす。だけれど、俺の方は見ていなかった。いや、焦点が合わない。
「たまには良いだろ。そうだ、この前電話してきたのは潮崎の方だろ」
 反論はない。
 口すら開かない。
 潮崎は、何かを考えている。
 しばらく時間をおいた後に、やっと潮崎は口を開いた。
「涼子、家勘当されて出てきたも当然だったから、帰る所がないんだってな。あいつの目的は俺だからな。今しばらくはホテル暮らしを決め込んでるみたいだ」
 昔のような、疲れを見せない潮崎の姿は、ここにはない。自分が勝つのは当然で、後はそれを招く努力を続けるだけと、言うには簡単、でも潮崎はやり遂げる。それが高校時代の潮崎の姿だったと俺は記憶している。
 しかし今の潮崎の姿はと言えば、服部がイタリアに移住してしまったと知ったあの時よりも、ずっと優しい顔をしている。何も憎めなくなった、憎む意志もなくなった。ただ、優しい顔をしていた。
「結局潮崎はどうしたいのか決まったのか?」
「どうする必要なんかなくて、どうすることも出来ないんだろうな」
 本当に潮崎らしくないと思った。この前の電話先の、怖いくらいの潮崎を過ぎると、こうなってしまうのだろうか。
「哲学的になりやがって」
 いちゃもんの一つでもつけないとこっちは正視も出来ない。見ていて正直つらい。
「俺は、ついて行くべきなんだろうな」
 それが俺にとっての一番の幸せかも知れない、そう続けた。
「服部の前にいると、やっぱ服部は大きいんだろうな。俺なんて、ちっぽけな研究室の中で、勉強してほめられることしかできない。それだけでよかった頃は良い。だけど、そんなことはやっぱり小さな幸せなんだろうな」
 潮崎のこんな弱音を聞きたくはなかった。だが、まだ答えは出してはいない。だから、少しとぼけてみる。
「潮崎でちっぽけなんて言ったら、俺なんてどれだけちっぽけなんだよ。潮崎ほど、包容力あるつもりはないぜ」
 笑ってみせる。そこで潮崎は朗らかに笑った。
「いや、俺なんかよりもすごいと思う。米原の悪いところは自分に自信がないことだな」
 正直、なんて笑い方をするんだと思った。まさしく、旧友と再会して、懐かしさのあまり溢す笑い、その類の笑顔だった。
 その笑い方は間違ってはいない。だけど、怖いくらいに、潮崎らしくない。俺が潮崎と会わなかったのは高々卒業してからの一年半だけだ。この年月がそうさせたわけじゃない。そこにあるのは、四年前に離れていった服部の影だけだった。
「服部は、日本に戻ってきたけど、本当は俺がついて来ても来なくても、どちらでも良いらしい。ただ、最後に、もし本当に運命の糸がつながっていたら、俺を連れてきたい。ただ、それだけらしい」
「全く迷惑な話だな。つまり、選ぶのは潮崎だと」
「そうか? ……そうだな。俺が思ってたほど、向こうは本気じゃないみたいだ。最後に俺との思い出が欲しいだけなんだろうな」
 潮崎は照れくさそうに目線をそらす。
 想像してしまう。このまま服部という女が潮崎の目の前から姿を消したらどうなるのだろう。潮崎はすぐに立ち直れるだろうか。四年前の俺みたいに、言いしれぬ泥沼にはまったまま、何かの感情が麻痺したまま、一人になってしまうのだろうか。だが、あの時に俺の話を聞いてくれたのは、この潮崎だったんだ。
 俺がするべき事は。

「じゃあ、どこか行かないか?」

 俺は弾みで提案してみる。
「服部と二人でか? 今更変な感じがするけどな」
 俺が考えていたのはそういう事じゃない。必要だと思ったのは、純粋に、今の思い出作りだと思ったから。
「そうじゃなくて、仲間同士でさ。高校時代の俺ら四人って、受験受験で遊びに行ってなかっただろ」
 潮崎が、何が面白いのか、鼻で笑った。いつもの潮崎の笑いだと、俺は思った。
「青春の巻き直しか。二十四にもなって。バカバカしい」
「今だから良いんじゃないのか。ほら、五十嵐の旦那さんも、その服部って女も誘ってさ」
「近場で、温泉か、この時期ならキャンプだろうけど。社会人ってそんな都合付くのか?」
 否定的な潮崎。
「俺は一仕事終わったばかりだし。何より、潮崎、こういうの好きだろ」
 潮崎から笑みが消えた。不気味だった笑みが消えた。変わりに、その顔は口元だけだらしなくにやついていた。これも、俺が見たことのない潮崎の表情だったが、どこか勝ち気な潮崎らしさを思った。
「米原、お前変わったな」
「俺はお前と違って社会人だからな。そうそう、俺の会社がお前の話したら面接しても良いとか言ってたぞ」
 とたん潮崎はすくっと立ち上がって、パソコン机の引き出しから、一つの白い封筒を取り出した。その封筒には赤文字で、履歴書在中と書かれていた。
「じゃあ頼む」
 潮崎の判断と仕事はいつも通り早かった。

 どこか旅行に行こうと五十嵐に声をかけると、すぐに計画に乗ってくれた。ここで有沢ではなく、五十嵐に声をかけるのがミソだ。五十嵐は手を叩いて賛成してくれ、それを聡文さんにも話したらしく、すっかり聡文さんも行く気になってしまい、さらにはキャンプに行こうと言い出した。翌日すぐにスポーツショップに買い出しに出たという。この人のおかげで、引くに引けなくなった。
 俺の心配もどこへやら。俺は大きな仕事の終わったところだったから、二つ返事で休暇を取れた。有沢は声をかけてみると初め言い淀んだが、突っついてみると意外と暇の様だった。潮崎は就職活動の合間を見つけた。五十嵐は、夫が早々に有休を取ったので、パート先の上の人に頼んで代役を立ててもらった。服部は潮崎が声をかけるとすぐに捕まった。本当に簡単に全員が集まった。キャンプの計画はあれよあれよという間に決まり、そして当日を迎えた。
 六人乗りでさらに荷物も多く積めるワンボックスカーを聡文さんが借りてきて、みんなでそれに乗り込んだ。車には既に、バーベキューセットやタープテント、釣り道具などが積まれており、全て聡文さんが自腹を切ったらしい。
 五十嵐が困ったように、
「聡文さんったら、あれもいる、これもいるで、張り切り過ぎなのよ」
と、本気で家計を心配していた。聡文さんはバツが悪そうだったのはしばらくだけで、とても上機嫌そうだった。
 三列シートの、運転席に聡文さん、助手席に五十嵐、二列目に俺と有沢、三列目に潮崎と服部が座った。服部とは、五十嵐と聡文さんも面識があるらしく、五十嵐などは普通にお喋りもしていた。
「皆さん、釣りはやります?」
 聡文さんが声を上げる。
「やってみたいとは思うんですけど、やったことはないですね」
 俺は紳士らしくそう答えた。隣で、有沢がぼそっと、本当かしら? とつぶやいたのは、気に留めないことにした。
「それはいけない。キャンプ場からちょっと行ったところに、川があるんですよ、一緒に行きませんか?」
 正直俺は乗り気じゃなかったが、断るのも悪いと悩んでいたときに、後ろの服部が、
「いいですね、何が釣れるんですか?」
と、声をかけた。それに聡文さんは上機嫌になる。
「大したものは釣れないと思うんですがね、おっ、服部さんも釣りをなさるんですか?」
「子供の頃に良く父に誘われてやりましたね。久しぶりに良いかもしれません」
「よしよし、それじゃあ、みんなで釣りをやるということで、異論はないですね」
 聡文さんが強引に話を進めようとしているところを、五十嵐が横から突っつく。
「行き先には、散歩程度の登山道とか、乗馬体験ができる所とかあるみたいですから、時間を見てみんなで行きましょう。それで、米原くん、朝釣りは一緒にどうですか?」
「結構です」
 また五十嵐に突かれてる。懲りない人である。潮崎も小さく笑っている。
 聡文さんはそんな調子で終始喋り続け、俺と服部さんと五十嵐が返事をしていた。有沢は高速道に入った辺りで、疲れていたのか眠っていた。昨日も残業が大変だったなどと、確かに言っていたし、本当に体力が切れている様子だった。潮崎は、ただ窓から遠くを見ていて、それを気にかけた服部と時々話していた。あまり元気そうではなかった。
 聡文さんは、キャンプを計画したのは自分だという責任からではなく、本人の性格からムードメーカー的な存在だった。そこには、早く俺たちとの壁を取り除こうという姿勢が見えた。
 服部も同様である。聡文さんや俺の会話にも自分から進んで入っていった。前に二人で会った時のような自分から立ち入っていく風ではなく、一歩引いてみんなの会話にあわせていた。
 五十嵐は、もう聡文さんとセットのように扱ってみてしまう。既に、昔の俺のすぐそばで頬笑んでくれた五十嵐を想像出来なくなっていて、俺はむず痒さを感じた。有沢も、似たようなことを思っているのか、昔のように積極的に五十嵐に話しかけてはいなかった。
 潮崎は、何を考えているのか分からないが、ただ流れる風景を眺めていた。潮崎のことだから、何か目的があってこのキャンプに来ているのは間違いない。証拠にきちんと、服部も来ている。
 有沢はずっと眠っていた。高速道の途中で休憩所に入ったときも、五十嵐が揺らして起こしてみたが、寝ぼけたまま五十嵐を叩いて、そのまま起きなかった。女の子の寝姿こそかわいいと言うが、今の有沢は目を閉じていながらも、どこか表情が険しかった。
 そして、俺がここに来た理由は何なのか。確かに提案したのは俺だったが、積極的である理由はない。潮崎が心配だったから。ただ遊びたかったから。意味もなく色々考えてみたが、答えはなかった。そのうち、眠っている有沢が俺にもたれかかってきた。起こすのも悪いなと思い、そのままにしておいた。
 高速道には一時間程乗っていただろうか、降りてからはずっと山道だった。どこに行くのかは、船越夫妻に任せてあったから、特に気にかけないでおくことにした。
 山道ばかり一時間半ほど進んだ先、やっと車が止まった。
「着きましたよ。皆さん、お疲れ様です」
 五十嵐が合図をする。俺は有沢を揺さぶってやり、まだ少し寝ぼけているようだったが、何とか目を覚まさせた。
 ここは高原だった。芝生の広場が大分続いていて、その先には針葉樹林の林になっていて、その辺りにいくつかのログハウスが点々と建っている。ただっ広くて何もない、広大な高原を独り占めしたような感覚を覚えた。
 有沢が車を降りてすぐに伸びをする。そこで驚きと共に、やっと目を覚ました。
「空気、全然違う。どのくらい高いの?」
 有沢の何気ない言葉に返事をしたのは聡文さんだった。
「えっと、そんなに高くないですよ。五百メートルくらいかな」
 有沢の横に立って、同じように伸びをしたのは服部だった。有沢の横に立たれると、服部の長身っぷりが良く分かる。
「日本にも、こういう場所がまだ残っているんですね」
「日本なんかより、イタリアの方が空気も水も綺麗なんでしょ」
 有沢が聞こえるようにつぶやく。それを当てつけと人は言う。
「そうでもないよ。都心に住んでたからだろうね、ミネラルウォータばっかりだったよ」
 有沢は面白くなさそうに頷く。予想はしていたが、有沢は服部に厳しい。当の服部は特に気にしている様子はない。
 聡文さんが駐車場近くの管理センターで手続きを済ますと、また車に乗り込み、目的のログハウスへと向かう。
 道なき芝生を横切る。着いた先のログハウスは、六人が泊まるには少し大きいくらいの立派な建物だった。五十嵐が先に出て鍵を開ける。まず、みんなでなだれ込むように中に入った。
 二階に個室があり、一階はカウンターキッチンの付いたリビングダイニングが吹き抜けになっていたり、バストイレも完備されていた。キャンプというには十分すぎるほどの建物だった。壁一面がガラス張りになっており、雄大な高原、山々を見渡すことができる。
 個室は、俺、潮崎、有沢、服部には一人一つの部屋を、船越夫妻は一つの部屋と、聡文さんが宣言した。誰が異論を出すはずもなく、それぞれが部屋に荷物を運び込んだ。
 荷物を運ぶ途中のこと、有沢が、
「やっぱり、あの二人は結婚してるんだ」
と、小さく溜息をついた。
「でも、文句のつけようもないくらいお似合いだよな」
 同意を求めてみると、素直に笑って答えてくれた。
「本当。五十嵐には絶対幸せになって欲しい」
 その後、聡文さんの呼びかけで、男三人でログハウスの前に、日差しを遮るタープテントを張り、バーベキューセットも運んだ。
「潮崎、火起こしやったことある?」
「中学生の時、以来だな」
 潮崎は高原に着いてから比較的元気そうだった。高原に着くとますます活気に溢れたのは聡文さんで、
「いえいえ、今の時代、着火剤に点火器を使いますね。これで、簡単に火が付くんですよ。あっ、うちわ、持ってきておいてください」
 既に外にいるのは男性三人だけで、女性三人はなかで食材を切ってきもらうことになっていた。少し、有沢のことが心配だった。
 炭に火が点く、次第に全ての炭が赤みを帯びてきて、その頃には、日は沈み始めていた。
 火の周りにみんなが集まってきて、ようやくキャンプらしくなってきた。俺はその火を眺めながら、それぞれが様々な思いを抱えたこのキャンプを、ただただ無事に過ごせることを、願ってみた。

 バーベキューでは、意外とみんなまとまって騒いでいた。それは、お酒の力もあるのかもしれない。
 服部と有沢が会話しているシーンもあった。それは、潮崎が用を足すためか、席を外したときのこと。
「やっぱり、向こうの方が食べ物とか美味しいの?」
 有沢が、少し焦げ目のついたホタテに醤油をかけながら、顔を向けずに言った。
「それは私に聞いている?」
 服部も意外そうだった。それまで服部は隣の、あまり笑っていない、笑っていたとしてもどこか苦笑いだった潮崎を、どうにか笑わせようと工面していた。
「そう。あなた以外にいないじゃない」
 有沢の言葉は、横で聞いている俺が、心苦しさを感じるほど、有沢の感情が乗っていた。無表情に努めようと焦りがあった。
「そうね。日本の方が食べ物は美味しいね。やっぱり。日本食が、とかじゃなくてね、日本は食べやすいものが多い」
 さらりと反射神経良く返される。
「なにそれ皮肉?」
「そう。結構皮肉。だけど、それの方が美味しく感じる私も皮肉。どう?」
 にやりと有沢を見つめ返す服部。幾分イレギュラーなテンポ。有沢もこう返されるとは思っていなかったが、突如ほくそ笑んで。
「……難しいギャグ。ハンバーガーとかはどうなの?」
「オリーブオイルで炒めたお肉を、やっぱりオリーブオイルであえたサラダと一緒にパンに挟もうなんて感覚は全くないね。あったらあったで興ざめね」
 矢継ぎ早にレスポンス。
「じゃあ、高い水は不浄の証?」
「そうね。高い水を飲むのは東京も一緒でしょ。都市型傾向の一種で、井戸水で生きている人はきっと知らないうちに寝首を掻かれて国を訴える、だね」
「そうね。間違いない」
 見た目盛り上がっている女二人。お互いに調子を合わせている。だからといって、お互いに目は笑っていない。潜在的な敵なのだろう。横から見ている分には二人はとても似ている。

「それで、潮崎くんのどこが良いわけ?」

 有沢が何気なさを装って尋ねる。有沢も思いきったことを聞くものだ。だが、有沢も意地悪で聞いているのではない。いつか尋ねたかったこの言葉を、今しか機会がないと踏んだのだろう。
 それは俺も知りたいことだった。俺は、俺よりは潮崎の方がかっこいいと分かっている。大学時代、潮崎は服部と出会い、そして今でもお互いを求め合っている。俺はと言えば、加納花菜に求められようとも、結局答えられなかった小さい男なのだ。親友として、一つの人生の敵として。こんなに潮崎の近くにいたというのに、俺は気づけなかったんだろう。
「今日の潮崎くんは違うけどね。やっぱり、私から見ても大人に見えるところだね。何にでも本気になれるくせに、いつもしっかり冷めてるんだもの。そう思わない? 私より付き合いの長い米原くん?」
 身構えていなかったが、黙っているわけにもいかない。体勢を崩して、何か喋ろうとしたところで、有沢が割って入ってきた。
「そう言うのって中途半端って言うんじゃないの?」
 服部は威嚇でもするかのように、ニコリと笑って、
「潮崎くんを中途半端って思った頃ある?」
 有沢は一矢報いたつもりだったが、簡単に返されて、先の俺のようにきょとんとなる。ここでは俺が肯定することにする。
「確かに、あいつにそんな風に思ったことないよな。あいつが、何かを面倒そうにしているなんてなかったな」
 そう、俺の知っている潮崎は、自分が勝つのは当然だと思い込んでいる潮崎であり、俺と同じ大学に来ることになっても愚痴の一つも溢さなかったのも潮崎だ。イタリアに行った服部に猛然と手紙を書き続けていたのも潮崎だし、久々に電話して成長したなと褒めてあげたのも潮崎だった。
「それは、潮崎が自分で進まないと気がすまない質だから。でも、下手に冷静だから、あまり自分から大きな行動に及んだりはしないの。これが素敵かは分からないけど、わたしには良いパートナーだった。米原くんもそうでしょ」
 服部の行動分析には、ただ聞き惚れるばかりだった。高校時代も、俺を密かに示唆してくれていたのは潮崎だった。加納花菜と上手くいかないと相談に乗ってくれて、茶化しながらもアドバイスしてくれたのが潮崎だった。
 思えば、ずっと俺は潮崎に助けられ続けていたのかもしれない。
 ここで話に参加してきたのは聡文さん。
「たぶん、それが長所であり短所なんでしょうね」
 しかし、服部がたしなめる。
「あまり、そういう結論を出すのは好きじゃないな」
 聡文さんはそのまま口を噤んでしまう。五十嵐が、聡文さんの肩に手を置き、笑っている。気にしないとでも言っているのだろうか。
 丁度その辺りで潮崎が戻ってきた。
「イカ、焼けました?」
 戻ってきて早々、コンロの上の金網を見て、そう言った。コンロ係の聡文さんが、そろそろ良いですねと言って、潮崎が渡した器にイカの頭を乗せる。
「おっ、サービス良いな」
 元の、服部の横の席に座って、イカにかぶりつく潮崎。その横顔を眺めた服部が、おいしい? と、笑って尋ねると、潮崎は首だけを小刻みに動かして頷いた。
 潮崎は焦っている。それは冷静な潮崎が迷っている証拠。いつもなら出ている答が、出ないままに歩いてみることを選んだ証拠。
 その結論を得るために、潮崎はこのキャンプに挑んだのだ。
 当の服部の、潮崎を慕う気持ちは先ほどの言葉から痛い程伝わってくる。それでいて、服部は潮崎を連れて行ければ良いが、無理なら諦めよう、そんな覚悟で来ている。判断は潮崎に委ねてしまって、潮崎ならきっとうやむやにせず良い判断を下してくれるから。だからこそ、服部の気持ちは、今まで潮崎と付き合ってきた俺たちを知っておきたいのだろう。潮崎を求める服部の旅はこれで終わりなのだ。
 俺は服部とはまた違った視線で潮崎を見ている有沢を見た。その視界には服部と潮崎がぼんやりとしているのか、焦点はどこか合っていない。
 さすがの有沢も、こうやって服部に話されては、その気持ちを理解したのだろうか。
 いや、有沢はそんなやつじゃない。もっと敏感で、仲間との調和を考えている。きっと最初から服部の考えていることくらい感じ取っていたと思う。だからこそ、相反する気持ちが有沢にはあるのだろう。それが何かは、今の俺には分からないが。

XI

 コンロの火が収まると、さすがに標高が高いせいか、少し寒気を感じて、誘われるようにみんなログハウスの中に入っていた。
 俺は最後にトウモロコシを一人で焼いていたため、遅れて入ることになったが、玄関から見渡した先、リビングには聡文さんと潮崎の男二人で、さらにビールを空けながら談笑していた。
「女性陣は?」
 俺が手に持っているトウモロコシを奪って、一つかぶりついたのは、もちろん潮崎だ。
「お菓子持って、二階行った。有沢が、五十嵐の結婚生活問いただすってやる気だったぞ」
 そう言いながら、聡文さんを横目に見る。
「子織も、久々にあんな笑顔見せてくれましたね」
 そう言う聡文さんの声は、決して弾んではいない。
 実際、聡文さんと俺らが会うのも、まだこれで四度目である。最初の同窓会と、潮崎の家の麻雀と、この前の打ち合わせと、そして今日。俺らが聡文さんについて五十嵐の夫だと言うことしか知らない。
 じゃあ、逆に聡文さんは俺らのことを知っているのだろうか。
「五十嵐、俺らについて何か言ってました?」
 あくまで興味本位を装って聞いてみる。

「二人とも、付き合ったことがあるって言ってました」

 いきなり核心部。俺も潮崎も、顔に笑顔を貼り付けたまま、硬直する。潮崎が首だけを傾けて尋ねる。
「高校時代は青い春ですから。色々あったけど。話さなくちゃいけないですか」
「僕はそのために来たんですよ。今は僕の子織ですから」
 聡文さんが、部屋の隅においたクーラーボックスにまだ残っているビールとおつまみを取り出してきて、俺らの前にも置いた。
「酒の席です。なんでも吐いちゃってください。僕もお話ししますから」
 潮崎の言うとおり、高校時代は、遠い昔の青い春だと思った。
 聡文さんが缶を開け、グビッグビッといい音を鳴らしてのどに流し込む。聡文さんはお酒にはあまり強くないのかもしれない、既に顔が赤みがかっていた。
「僕と子織との出会いは、大学のテニスサークルだったんです」
 そんな調子で、聡文さんが先行して語り出した。俺と潮崎も、座ってビールの缶を開け、あおることにした。
 そんなに複雑な話でもない。サークルで一緒に過ごす内にお互い惹かれ合い、二年間交際を経て、五十嵐の大学卒業とともに、同居生活を始めたという。なんらおかしいところのない、ごく普通の恋愛をしているようだった。一年間の同居の末、今年の四月に籍を入れたという。聡文さんは波瀾万丈を語る訳でもなく、ただあったことを時系列正しく話してくれた。
「一年以上も一緒に住んでるから、色々あったけどね。食べ物の違いとか、本当に貧乏だったりとか、月並みだけど。でも、そう大きな喧嘩することもなく、やってこれたんだ」
 俺と潮崎はただ聞いて、頷き返すだけだった。それはそれは、本当に俺の知らない五十嵐の姿だったから。
 もう六年間も経ったのだ。俺が五十嵐と一緒に過ごした期間の何倍もの時間を、この二人は共有し続けているのだ。
「時々、僕でも不安に思うことがあります。まだ結婚して一年半ですからね。時々、子織が何を考えているのか分からなくなるときがありますね、今でも」
 俺にとって、五十嵐にそういうイメージがないから少し意外だった。
 ひとつ話し終えたのかまたビールをあおった。そして、聡文さんは俺らにこう聞いてきた。
「さて、次は君たちの番ですよ」
 今さら俺に何を言えというのだ。俺にとっての五十嵐は、もう完全なる過去に過ぎない。残っているのは、あの時好きだった情熱そのものではなく、燃え尽きて黒く変色してしまった煤ばかり。
「俺に言える事なんて、ほんと無いですよ」
「分かっています。だけど、少し話して欲しいんです」
 そう言われて、断る理由もなかったわけだが、ただ恥ずかしかった。本気で五十嵐を愛しているその人を目の前にして、俺の語る言葉なんて、六年前のガキ臭い話でしかないと思ったから。
 だけど、その頃の情熱が大きいからこそ、俺の六年間はあったのだ。加納花菜の時だって、そして今だって。だからこそ、俺は語るべきなんだろう。そう結論した。
 それでは、話すとすればどこからすれば良いものか。
「俺らと、五十嵐と有沢の二人が知り合ったのは、予備校で同じ高校だって分かってからでした」
 この四人でつるむ様になってから、しばらくして俺が五十嵐に恋心を抱いた事。三年の夏の焦りで、俺が五十嵐に告白した事。そして一度目は見事に振られた事。五十嵐が潮崎を好きだった事。有沢に助けられた事。潮崎と五十嵐が上手くいかなかった事。俺と五十嵐が付き合うことになった事。俺が五十嵐に見切りをつけられたこと。そして、俺が有沢と、潮崎が五十嵐と、付き合うことになった事。
 話の途中で潮崎が尋ねる。
「四人で撮った写真見ました?」
「見せてもらいましたよ。五十嵐の横に、潮崎さんがいましたね」
「あの頃は、ですね」
 今度は聡文さんが相槌を打ったり、俺と潮崎が茶化し合っているのを笑ったり、あまり口を挟むことなく淡々と聞いていた。
 喋れば強く思う。本当に、俺らの恋愛は過去のものになってしまったんだなと。青臭い、それでも身近な出来事だった事も、過去の大恋愛の一つで片づいてしまう。真っ黒な残骸は、そんな物は残っていなくて、ただあると思いこんでいただけ。
 潮崎が言う。
「夏が終わった時点で、俺は五十嵐と付き合う事になり、コイツは有沢と付き合う事になってました」
「成り行き、だったんですか」
 聡文さんが聞いてくる。潮崎は答える。
「確かに、成り行きだったのかもしれない」
 夏を過ぎても、俺たちは四人で一緒にいることが多かった。あれだけのことがあった四人なのに、全くなかったとは言わないが、それほどギクシャクせずに、この四人の関係は築かれていた。それはやはり、五十嵐の人柄が大きいと思う。有沢がひどい世話焼きなら、五十嵐は四人一緒にいることを一番願っていた。そしてその願いは、四人で叶えられた。最高の形で。
「だけど、そのときは俺なりに五十嵐と付き合ってた。五十嵐は素直に好きだっていってくれたから、俺だって五十嵐に尽くしていたし。あの時は本当に、俺も五十嵐が必要でした」
 そして別の大学に入る内に、どうしても疎遠になって、はっきりと別れたのは大学一年の一月だと言った。正月休みで、一緒に初詣に行ったときに、潮崎の方から告げたという。
「俺の方から振ったって言うのは、否定しない。その時は好きじゃなかった、っていうのも否定しない。だけど、別に喧嘩別れしたとか、そう言う事はない。ただ……」
 潮崎が言い淀む。ここは俺が続けなければならない。
「五十嵐って、ほんと人一倍、人に気を遣うんです、高校の頃から。俺と五十嵐が付き合うようになったのだって、その後でも一緒に仲間でいられたのだって、その相手が五十嵐だったからと思うんです。そうだよな、潮崎?」
 すかさず潮崎の声がかかる。
「当たり前だ」
 潮崎が大きく一息つく。もう話すことはこれで全て話し終えたとばかりに。
「よくわかりました。いやぁ、変なこと聞いてしまって本当に申し訳ない」
 聡文さんが深く、頭を下げた。
 そしてまた三人で飲み始めた。今は、本当に気の許せる仲間として。

XII

 キャンプは、二泊三日の予定だった。一日目の夜は、男性陣も女性陣もともに、酔い疲れて、揶揄することなく眠っていた。
 翌朝は聡文さんと服部が一番に起きて、備え付けのガスコンロで、食パンを焼いたり、コーヒーを入れたり、朝食の用意をしてくれていたらしい。残念ながら、他の四人は昼過ぎまで眠っていた。
 それにしても、昨日の夜は柄でもなく楽しかった。聡文さんは、純粋に五十嵐を元カレの俺らと会わせるのに抵抗があったと、明言した。潮崎も、服部を日本に残るよう説得すると宣言した。二人に、有沢を口説くのか聞かれたが、明言出来なかった。取り敢えず、男三人の協力網は結成された。
 女性陣は女性陣で、妙な連合体制ができあがっていた。特に、有沢の俺いびりに、五十嵐だけでなく服部も加わるようになっていた。服部のぬけぬけとした物言いは、回数を重ねるごとに鋭さを増してくる。
 二日目分の食材は用意してあったが、有沢の提案でどこか遠出することになって、街まで降りてみることになった。要するに観光だ。時間も遅かったので、古城跡を見てきたが、丁度良い散歩にしかならなかった。でも、この六人でいることが、なんだか楽しくなっていた。
 そのまま、街で見かけた欧風レストランに入って、運転する聡文さん以外はワインをいただいた。服部が向こうのテーブルマナーについての、解説と言うよりは、違いに驚いた苦労話をして、それを聞いて楽しんだ。
 そして元のログハウスまで戻ってきて、寝転がるなりして、一日の疲れを癒していた。だらりと無駄に過ごすのですら、貴重に感じたものだ。
 潮崎と将棋でも楽しんでいる内に、いつの間にか五十嵐と聡文さんがリビングからいなくなった。
 時間をもて余して、談笑しながらテレビを見ていると、気づけば有沢が背後に立っていて、
「星見に行きたい。ついて来て」
 と宣ったので、
「似合わねえ」
 と素直に言ったら、頭を叩かれた。だが、有沢が目線で潮崎と服部の二人を指したので、ここは有沢に付き合うべきなんだろうなと思い、腰を上げた。



 外は殊の外寒かった。上着がもう一枚必要なくらいに。そこは、周りに明かりがほとんどなく、確かに歩けば星も見えそうな静謐な雰囲気だった。聞こえるのは、さくっさくっと芝生を踏みしめる二つの足音。密かなフクロウの声。そして安らかな風に木々が擦れ合う音だけだった。
 先を行く有沢に、俺は声をかける。
「潮崎のヤツ、どうすると思う?」
 有沢に尋ねると、間髪入れずに、
「米原はどう思う?」
と返される。取り急ぎ考えてみる。しかし、出た結論は、
「ついていかない、だろうな」
だった。
「服部の方はどう言ってた? やっぱりイタリアに戻る?」
「そうみたい。その辺は意地でもイタリアで暮らすって雰囲気だった。やっぱり、潮崎は服部さんに日本に残って欲しいって?」
 お互いに報告。
「そう言っていたな。服部も、潮崎も、相当頑固だよな」
 有沢は短く笑ってくれる。
「そう。二人とも頑固すぎ」
 有沢は歩を緩めず、前へ前へと進んでいく。俺はその後に、続くだけ。有沢は一度も振り返らない。
「それにしても、服部と話せるようになったのか?」
「どうかな。あの人とは、体の洗い始める場所とか、お菓子のひよこをどこから食べるかとか、絶対にそりが合いそうにないね」
 こうやって茶化せるって事は、ある程度信頼していると取って問題ないのだろう。有沢だって、元々人嫌いするタイプじゃなかったはずだ。ただ時期が悪かっただけで。
 何となく、お喋りが続く。二人で夜闇の中を歩く。光源から離れると、隠されていた星々が淡く灯りだす。さらに離れれば、天球一杯に、本当に砂糖を溢したみたいに広がった。
「きれい」
 有沢がつぶやく。俺にしても、期待以上に輝く星空が、そこにはあった。
「普段見ている空と同じ空なんだよな」
「うん、信じられない」
 二十四にもなって、こんな単純なことで感動するなんて思っていなかった。そして、今この大きな空の下にいるのは、俺と有沢二人だけだった。
 だから、俺は有沢に話しておきたいと思った。
「有沢さ」
「なに。昔みたいに愛の告白でもしてくれるの?」
 雰囲気に飲まれて、それも悪くないと思ってしまうから不思議だ。いや、本当に悪くない。
「これからどうするんだ?」
「仕事の話? やめて。やっぱり男の子なんだから」
 それでも有沢の声は、怒っていない。
「いや、がんばれよって話」
「なにそれ」
「有沢は、間違いなく俺よりすごいヤツだと思う」
「そんなこと今更」
 俺も有沢も顔を見合わせず、ただ芝生に寝っ転がって、星に思いを託して。
「だから、俺と違って、間違えたって即アウトって訳じゃないと思うんだ」
 有沢は黙って聞いていてくれる。
「間違えたら間違えたで、有沢なら十分、後からでも修正できる。それだけねじ曲げるだけの、高校時代から知ってる有沢は、力持ってた。だから、がんばれよって話」
 話を終える。まだ顔を見合わせられない。言葉は中空に向かってはき出され、それでも言葉は有沢に届いているだずだ。
「もしかして、あたしを励ましてるの?」
 トンチンカンな言葉。
「当たり前だ!」
 俺は起き上がる。有沢はまだ地べたで虚空を眺めている。有沢の口の端が既に吊り上がっている。あぁ、俺だってもう耐えられない。
「信じられない。あたしが米原に慰められるなんて」
 言葉とは裏腹に、有沢の声は興奮で上擦っている。
「たまにしか言えないんだ。どれだけ有沢のこと、信じてても、俺が言葉にすると、気迫がないんだよ。気迫が」
 自分が何に憤っているか分からないが、とにかくおかしい。
「へぇ、米原はあたしのこと信用してるんだ?」
 半身を持ち上げる。その表情は陰になって見えない。
「……当たり前だ」
 分かった。有沢にはこの言葉が足りないんだ。
「高校時代、あんな事があって、何年間も無視し続けたのに、あたしのこと信用してるの?」
 有沢のそれは既に質問じゃない。望みじゃないか。
「それは信用してるかじゃなくて、信用できるかだろ」
「あー、誤魔化した」
 指を指される。こういう言葉は、どこか告白じみて、昔は安易に口にできたのに、今は唇が硬くなっている。
 だからこそ、勢いをつけてもう一度。
「信用してる」
「もっと大きな声で」
 あぁ、遊ばれている。でもそれは、有沢が俺を信用している証拠。この関係が、昔から続いていたこの関係が、俺はとてつもなく好きなのだ。
 だから、言ってやった。

「有沢はもっと俺に世話を焼かせたって良いんだ。俺は最後まで付き合ってやるし、弱音だって聞いてやる。だから、がんばれ。俺が応援してるから」

 夜に放たれた言葉。
 二人が口を開いていないと世界は静かだ。穏やかに輝くだけで、風の音はなだらかだ。
 その静寂に混じるのは、有沢の涙混じりの声。
「くやしい、けど、うれ、しい」
 嗚咽に隠れてはっきりと発音されないその声を、俺は確かに聞き取った。

Epilog


 楽しかったキャンプから、もう三ヶ月が経とうとしている。この間に、俺の身の回りはずいぶんと状況が進んでいた。
 まず、潮崎の就職の話。潮崎は見事に俺の上司になった。その会社を受ける潮崎も潮崎なら、話に聞いていながらきちんと採用する橋部さんも橋部さんだ。やはり、良い大学を修了した潮崎を、俺と同じように雇うことは出来ないらしい。一年間は俺と似た扱いだが、実務をある程度積んだら積極的にリーダー職に就かせるつもりらしい。これは実に悔しいが、確かに俺より潮崎の方が出来るのを否めないのだから仕方がない。
 つまり服部は、そのままイタリアに戻った。潮崎が言うには、とてもとても頑固で手のつけようがないと。潮崎は一つの恋が終わったなと強気だったが、やはり落胆を隠せていない。証拠に、潮崎の部屋にまた資源ゴミが積まれていた。
 だが、その三ヶ月後だ。服部から現地の男性と結婚したという手紙が届いたという。同封されていた写真には、ドレスを着た服部と、鼻の高い地中海人が並んで教会から出てくるところが写っていた。
 服部はもう日本に戻らない。そう潮崎は言っていた。親とは勘当同然で家を飛び出した服部の、日本と残っている接点はあと潮崎だけだった。ただ、その接点を最後に心に刻んでおきたかった。服部は本当に、賭けのつもりで帰ってきていたんだ。潮崎が自分で偉そうに語っていた。
 船越夫妻は、妻の要望でついに式を挙げた。それでも大がかりなものではなく、両親と数少ない友達だけを招待した。もちろん、俺は招待され、かげりの一つもない船越子織のドレス姿を眺めてきた。聡文さんは結構嫉妬するタイプらしく、五十嵐にドレス着てるときはあまり話しかけないでねと釘を刺された。期待のドレス姿は、来ていた俺と潮崎に少なからず後悔させた。
 そして有沢は、今まで勤めていた会社を辞めて、同業の他の企業に移り、そこでまた成功したと自慢していた。前の会社が嫌いになったわけではない、だけど自分をもっと買ってくれる会社を見つけたと。やはり有沢は行動さえすれば、実力は底知れない。
「二人は付き合っているんだよね」
 披露宴の後の、飲み会で、五十嵐が、ご祝儀の値段で言い争っていた俺と有沢に言ってきた。
「どうかな?」
 意地悪く有沢が言う。
「俺はどっちだって良い」
 俺はお茶を濁しておく。
「でも、米原よりあたしの方がずっと収入上よね」
「じゃあ、俺が家事全般をやんなきゃだめなのか」
 意味のない争いに五十嵐が口を挟んで一言。
「うん、それが良いよ。有沢、家事とか得意じゃないでしょ」
 手を振って否定する。
「そんなことない。ただ、好きじゃないだけ」
 俺はここぞとばかりに言っておく。
「でも、有沢が家の中で家事やって、子供あやして、お帰りなさいアナタ、なんてやってるシーン想像出来ないよな」
 五十嵐に同意を求めてみる。五十嵐は口元を押さえて微笑むだけで肯定も否定もしない。
「ひどい。そんなこと言ってると、あたしだって逃げちゃうゾ」
「かわいく言っても、有沢は有沢だ。隙あれば、首根っこ掴んでヒー、だもんな」
 などと、勝手に二人で盛り上がっていると、五十嵐が、
「思うんだけど、高校生の時より子供っぽいよね、この二人は。もっと大人だと思ってたのに。その辺りがお似合いなのかな」
などと言ってくる。潮崎は首を縦に振って苦笑する。
「もう、そうね。あたしをもらってくれるとしたら、米原くらいが丁度いいかもね。違う、あたしの方がお金持ってるんだから、あたしが米原をもらうのか」
「そんなこと言って、毎日家に帰ってきては俺に愚痴を溢すんだろ。そうしないと一日が始まらなくなるんだ」
 ここで後ろでずっと聞いていた潮崎が、一人つぶやく。
「俺も恋がしてぇ」



 恋をするのも面倒で、もう恋なんかしたくなくなって。ただ一日で恋に落ちれば、そのまま婚姻届を出してしまうような、そんな適当な恋で良い。
 それはもう過去の話。して欲しいことがあって、したいことがあって。あぁ、この人が好きなんだと思える瞬間があれば、それだけで良い。

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