8/12-1[随筆]記号しか見えない退化した目
何かを目で見たときに、それを映像として覚えているかと言えば、怪しいとしか言いようがない。頭で再構成してみると、言葉となった記号の張りぼて映像のできあがりである。映像としてあったとしても、彩色の少ない輪郭線ばかりの映像だったりする。特に最近はその気が強い。これって、脳みそはアニメに変換して記憶してるってことじゃん。
例を挙げると、車の運転中には、ほぼ信号の色と、道の形と、前方の車の形と、歩行者がいるかいないかという情報しかやりとりしていない。情報量に直してもきっと1秒間に裁いているのはCメール一通文(つまり半角100文字=800ビット)ぐらいか、それ以下に違いない。映像情報にかかわらずである。特に車の運転中はそれしか必要ない、どころかそれ以外を気にしていては事故っちまうおかげで、視覚情報の記号化に特化した脳みそ状態になっている。
日常生活、本を読んでいるとか、ネットをしているとか、CGで作られた世界とか、そういうディジタル、人間がすでに記号化したものばかりを見ることが多いせいか、非常に今の日本人は記号化する事に特化した脳みそを持ってるんだと思う。まるで、ディジタル通信はアナログ通信と違って、極端に高い1
と極端に低い0しかみないから、少しくらいノイズが入ってきても元が極端だから判別不可能にならない、みたいな。だけど、それは細かい部分を捨てた結果である。言いたいことは、ものを細かく見るのが不便になってきてやいないかと言うことだ。
特にただ呆然と自然を眺めていたときに思った。大木のそれを眺めていても、そのディティールは全然脳みそに入ってこない、入れていない。今思い起こせるのは、でっかい木だったなーという輪郭、記号だけ。これは異常だろう。小さな誤差、小さな危険があったとしても、脳の記号化フィルターがいとも簡単にそれをはねのけてしまう。異常に気づかないのだ。
で、退化したのは目じゃなくて視覚野なんだけど、先日ルオー展に行って芸術に触れて思ったのがこのこと。ディティールが見えない、感じられない。これが何であるかを見ようとしてしまう。ただ視界に入れて輪郭を確認しただけで満足してしまう。それならば写真を見ているのと何ら変わるところはない。実物が在るのだ、小さな脈動を感じずにどういう意味がある。俺が仏像を細かく舐め回すように見るのが好きな理由だってそこじゃなかっただろうか。
だからこそ、自然を眺めたりとか、人の作った芸術の実物を見たりとか、そうすることで、逆に記号化する脳みそからディティールを感じる、小さな鼓動を感じられる脳みそへトレーニングできるんじゃないかと。また、定期的にはそうしなきゃいけないんじゃないか。さもなくば、いつか来る小さな脈動を感じなければならない瞬間を逃して大変な目に遭うかもしれない、たとえば災害のような人間の範疇を超えた自然と出会うときなどに。
言いたいことをまとめる。テレビ、ネット、ゲーム、書籍による記号化されたものばかりを享受することによって日本人の脳は視覚を記号化するのに特化しすぎじゃないか。そのせいで細かい部分が見えなくなってきているのではないか。そして、それは日常生活は困らないまでも人間の生存として困ることではないだろうか。細かい部分を見る脳みそを鍛えるには、芸術とか自然に触れ、記号的ではないところで可能であり、定期的に必要ではないか。
特に、掃除しているときなんか、昔はもっと細かい汚れにも気づいてたよなぁ、今はめんどくさがってか、目が退化した成果で、細かい汚れになかなか気づきにくい。これって危なくない? これに気づいたのは、最近サイトに写真を載せるようになったからかもしれない。
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