新編・魔法使いの彼女と僕

南 那津  2007/2


「私、魔法が使えるんだ」
 そう前置きして、彼女が人差し指をくるりと回す。
 僕を破壊するにはそれで十分だった。

   一

 今年の冬は暖冬になるでしょう。気象予報士は最近嘘しか言わなくなった。当たる確率が半分を下回れば、それは情報量がゼロであるのと同じ。
 今年の冬は一段と寒い。太平洋側のこの地域では、もともと雪なんてものは年に数えるほどしかお目見えしない。それにも拘わらず、今年はすでに何度降ったか数えていられないくらい、降っている。こんな日に元気に外を駆け回るのは、犬と小学生くらいのものだろう。
 こんな天気に、僕がどうして外に出ているかと言えば、僕の誕生日に、付き合って半年になる彼女が手料理で好きなものをご馳走してくれると言ったからだ。それを思えばこの寒さなんてたいしたことはないのかもしれない。もっと暖かいものが僕を待っている。
 そう考えていても、寒さは確実に体の熱を奪っていく。奪われた熱は何らかの形で補給しなければならない。それは食べ物であり、お風呂などで体を暖めることでもある。だが、そのためには多くのエネルギーを要する。石油を消費して、湯を沸かし、それを媒介して熱を吸収する。非常に効率が悪いことは分かっているが、残念なことに、人間にはコンセントがついていない。
 そんな仕方のない思索に耽りながら、雪の中を歩き続ける。それに今日は、初めて彼女の部屋に招待された日でもある。彼女のワンルームマンションに近いコンビニエンスストアで、待ち合わせている。ようやくたどり着き、外から店内を覗くと、お菓子を物色している彼女と目があった。
 会計を済ませて出てくると、一つ頷き、僕の手を取った。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう。だいぶ待たせちゃった?」
 彼女は首を横に振って答える。買い込んだお菓子の量を見ると、待たせてしまったことには違いない。
 それから彼女も傘をさして歩き出す。僕はその横についていく。
 彼女の名は、永森摘希(つみき)。半年くらい前に、僕が働いていたスーパーマーケットに、彼女が短期のアルバイトとして入ってきた時に知り合った。彼女のアルバイトが終わってから、大学構内で再び出会った時には驚いた。それから何度か顔を合わせているうちに、今のような関係になった。
 摘希の住むマンションは、そのコンビニエンスストアから十五分ほど歩いたところにあった。その間、何を作ったのか尋ねたが、逆に、何が食べたかった? と、問い返されるだけだった。冗談で、豚のショウガ焼きと答えると、摘希はそっぽを向いてしまった。慌てて摘希の買ったお菓子の話にすり替えて、その場をしのいだ。
 マンションに着き、促されるままに摘希の部屋に入った。少し緊張する。部屋をじろじろ眺めるのは悪いと思い、目線を摘希の方に向けていると、摘希が何事かと不思議そうな顔をした。
 しかし、部屋の中は何か用意されている様子もない。摘希にコタツに座るように言われて、そして摘希も僕の向かいに腰を下ろした。
「ねぇ、何を作るつもり? 楽しみでお昼抜いてきたんだよ」
「見てて」
 摘希の目が僕の目を見据える。いつもの摘希は目を見て話したりはしない。真剣なその眼差しに、僕は唾を飲み込んだ。摘希がわずかに怯えているように見えた。
 摘希が右手の人差し指を一本立てて、僕と摘希の間に移動させる。
 一呼吸置いて、摘希は言った。
「私、魔法が使えるんだ」
 僕に言葉を返す暇はなかった。摘希が人差し指をくるりと回すと、豚のショウガ焼きが二人を挟むコタツの上に現れた。
 僕は思わずのけぞる。何が起こったのか理解することなく、頭が拒絶していた。
 そのショウガ焼きは、現れたと言うよりは、元からそこにあったと言わんばかりの存在感を持って、鎮座していた。最も似ているのは、テレビのシーンが切り替わる、あの感じだ。そしてそれは、今焼きたてとばかりに香ばしい匂いを放っている。
 まだ、脳が麻痺している。明らかに、手品ではない。
「大丈夫。食べられるから」
 そう言って、摘希は自分の箸で一つつまみ、口に入れる。おいしいと一言。
 僕がそのまま動けないでいると、不安を口にする。
「そんなに驚かせた?」
 その声に、僕は反射で答える。
「手品じゃないんだよね」
「魔法」
 再び摘希が指を振る。イチゴが円状に並んだケーキが、コタツの端に出現する。丁寧にも、そのケーキの上では何本ものろうそくが灯っている。
 さらに指を振る。部屋の明かりが消え、部屋はろうそくの明かりだけになる。
 確かに、手品ではこんなに上手くはできないだろう。だけど、手品じゃなかったらなんだって言うんだ。出現したと言うなら、どんなエネルギーが働いたと言うのだ。
「えっと、何をした?」
 思わず摘希に聞いてしまう。
「違う。今まで内緒にしてたけど、私魔法使いなの!」
 摘希が今までになく声を張り上げる。
 ろうそくの明かりだけの暗い中で摘希の目を見た。不安げに開かれていても、瞳孔はまっすぐ僕を見据えていた。
「早く、ろうそく消して」
 僕はやけくそとばかりに息を吹きかけた。明かりは消えて、真っ暗になる。次の瞬間に世界が切り替わるように灯った明かりは、天井に所狭しと吊られている場違いなシャンデリアだった。
 僕は、無理矢理理解した。冗談などではない、本当に魔法なのだと。

   二

「摘希の魔法って、どういう原理なんだ?」
 自分が魔法使いであると告白されて、しばらく経った。それ以来、摘希は僕の前でもおおっぴらに魔法を使うようになった。魔法を使うと言っても、食事を魔法で出すとか、忘れた財布を魔法で取り寄せるとか、洗濯を魔法で済ませるとか、とても日常的なことに。
 今日は摘希が僕の部屋に来ていた。こうも寒いと、家の中でぬくぬくとくつろいでいるのが一番楽だった。
「原理?」
 眉間にしわを寄せて難しそうな顔をする。明らかに考えていることは難しそうでもなんでもない。
「魔法はどんな仕組みなんだい?」
 そう、魔法によって何か具体的なことが起こるのだから、そこには何かの仕組みがあるはず。しかし、摘希から返ってきた答えは拍子抜けするようなものだった。
「頭に思い描いて、指を振ればその通りになる?」
 疑問形で返されても困る。
「使い方って、そんなに簡単?」
「うん。ちょっと集中しなきゃいけないけど。それだけかな」
 僕が知りたいのは、使い方じゃなくて、その仕組みなのだけど。どうも摘希の顔を見る限り、それを知ってそうには見えない。
「摘希の家、もしかして先祖代々魔法使い?」
 慌てて否定される。
「違うよ。私だけ。私だって使えるようになったの高校生の時なんだから」
「どうやって?」
 摘希は平然と答える。
「寝ぼけながら、魔法使えないかなとか思って、指振ってみたらできたの。びっくりした」
 摘希は右手の人差し指を振ると、左手に市販のコッペパンが袋つきで現れた。その袋を破き、摘希は口にする。
 ここは笑いどころなのだろうか。それどころではなく、血の気が引いた。
「もしかして、魔法使うと疲れたりする?」
「全然。使い放題」
 正直、返す言葉がなかった。
「便利だよね、それ」
「うん。便利便利」
 そう言って自分の右手の人差し指を眺める摘希。見る限り、本当に摘希は魔法の仕組みを知っている様子はない。ただ摘希に必要なのは、指を振れば願いが叶うと言うことだけなのだろう。
「魔法に、何か対価とか必要だったりしない?」
 摘希には、上手く『対価』という言葉が変換できなかった様子で、また眉間にしわを寄せる。本当に何も失うものもなく魔法が作用しているのだろうか。
 それは僕には到底理解できないことだ、目の前でこれだけのことが起こっていたとしても。
 僕は反抗せずにはいられない。
「それ、やっぱりおかしくない?」
 摘希の返答は、摘希にしては早かった。
「分かってる。でも、使える」
 僕が持ち出したいのは使える使えないの問題ではない。
「エネルギー保存の法則って、分かる?」
 摘希の表情が固まる。摘希が物理の話が得意でないのは分かっているが、続けさせてもらう。
「まず、この空間に存在するエネルギー量は常に一定なんだよ。だから、物を出現させるような現象をエネルギーで捉えれば、莫大なエネルギーがそこで消費されたことになる。ほら、アインシュタインの方程式って聞いたことあるよね。それだと、質量に光速の二乗をかけると、エネルギーが計算できる。物を生成するってことは膨大なエネルギーが要るんだ」
 硬い表情のまま、頷いてくれる。続ける。
「じゃあ、この魔法のエネルギーはどこから得ているんだろう? と言う問題になる。さてどこだろうか」
 頷きはするが、あまり話しについて来られてはいないようだ。
「今のところそれが分からない。だから、むやみに魔法を使うのはやめておいた方が良んじゃない。僕はそう思う」
「でも」
 摘希が慌てて返答する。
「どうやって魔法が働いているかも分からないよね」
 そう摘希本人が言ったじゃないか。
「だったら、そのエネルギーなんとかの法則も、当てはまるのかな」
 そう言われると、摘希を納得させるのは難しい気がしてきた。なにしろ物理を習った僕としては前提の話なのに。
「エネルギーが増えるようなことがあったら、空間の平衡性が成り立たなくなってしまう」
「……それって、そんなに大切なこと?」
 大切と言うよりは。
「常識、だろうね」
 僕の方も歯切れが悪い。摘希があからさまに嫌がっているのが分かるから。摘希はそれに反抗してか、もう一つコッペパン、違って今度はあんパンを出現させる。紙パックのカフェオレも同席していた。
 それでも、僕だって気持ちが落ち着かない。大学で物理学を専攻する身なのだ。こんなイレギュラーをそう簡単に認めるつもりはない。認めなくてはならないのは承知している。それでも、物理学の基本は譲れない。
 不機嫌につぶやかれる。
「君は私に魔法を使うなって言いたいんだ」
「訳の分からないものは使わない方が良いと思わないか」
 摘希にとっては訳の分からなさは、物理学も魔法も変わらないのだろう。だいたい僕の方は、学んでいる物理のほとんどを破壊されたに等しい。僕の方も、少し頭にきているようだ。
 摘希は億劫そうに言葉を漏らす。
「厄介だなぁ」
 それは、僕の方が悪いのか。頭が痛い。



 僕だって魔法が便利であることは認める。だけれど、それは核燃料の安全を問うのとは相場が違う。
 摘希の魔法その一。寒い時の対処法。
 部屋ではストーブを三台呼び出す。温度調節はボタンではなくストーブの台数で行う。僕なら三台のストーブを見るだけで、石油の残量問題について考えてしまい頭が痛くなってしまう。外ではコートの内側にカイロを呼び出す。僕のコートにも施してもらったが、とても暖かくてやみつきになりそうだった。
 摘希の魔法その二。お腹がすいたときの対処法。
 まず、皿と器を並べる。十冊の料理のレシピ本から食べたいものを思い描き指を振る。それだけで、テーブルの上にその料理ができたての状態で現れる。どうせなら、豪華レストランのディナーを思い浮かべれば良いと思うが、過去にやってみたが今ひとつおいしい物に出会えないらしい。
 摘希の魔法その三。遅刻しそうなときの対処法。
 大学講義棟内のトイレに自分がいる姿を思い浮かべて指を振る。俗に言う瞬間移動。歩くのがだるく感じる時にも使っているらしいが、移動に関しては魔法でも疲れを感じるらしい。それでも、これは相当便利かもしれない。
 このように摘希は日常生活を魔法で補っていた。その生活ぶりを見ていると、ますます僕の頭痛はひどくなる。
「ほら、魔法なしだと面倒でしょ」
 得意げにおっしゃる摘希さん。
「そんな問題じゃないんだけどな。周りの人たちはそれが普通なんだし」
「強情だなぁ」
 最近の摘希はそういう不満を平気で口にする。
 僕だって好きで言い続けているわけではない。本気で、世界のバランスが崩れると思っているのだ。時々魔法の前には自分がバカらしく思えてくる時もあるが。だいたい、僕の方も魔法に慣れてきた。魔法について、少し分かってきたのもある。
 それは摘希の魔法の願い方にヒントを得た。どうして摘希は、魔法で自分の体が温まるよう願わずに、わざわざカイロを生成したのか。それは、継続的な状態を願うことができないからだと僕は考えた。つまり、ずっと暖かくなるなどのような、効果をずっと継続しなければならないものは実現できず、それはカイロのような物を出現させることで、副次的にそれをかなえなければならないようだ。
 そしてその効果は一瞬しかない。一度出現した物はずっと消えないし、一度消した物は願わない限り二度と戻ってこない。
 このことを見つけたときは大発見だと喜んだが、よく考えてみれば魔法を使いこなしている摘希にとってそれは当然なのだろう。僕もあえて騒ぎはしなかった。
 摘希の魔法その四。僕が頼ってしまった例。
 アルバイトで貯めたお金で、ついに車を買った。その時の僕は最初に摘希を乗せたくて仕方がなかった。摘希の住むマンションに車を駐めようとバックしたときに、背後から嫌な音がした。購入初日に凹ませてしまって、うなだれているところに摘希がやってきて、一瞬で直してくれた。さらに、車を摘希の好きな黄色に変えられた。
 その時摘希が言ったことは、印象に残っている。
「君だけよ。私が魔法を使うの」
 僕にとって、それは嬉しくもあり、止めさせたくもあり、単純に受け止められなかった。
 ある日の夜は、摘希が僕の部屋に来ていた。僕の方がレポートの提出期限前で、余裕がないことを伝えたにも関わらず、摘希は邪魔はしないよと嬉しそうに言って遊びに来たのだ。来てくれるのは素直に嬉しかったが、摘希の相手ばかりするわけにも行かない。拗ねたのか摘希は部屋に寝そべりだした。悪いことをしているのは僕の方だという気がしてきて、摘希になんでもないことを話しかけた。
「摘希が魔法使いだって知っているのは、僕だけなんだよね」
 当たり前だと言わんばかりに、摘希は頷いた。
「私も、君がそんなに頑固だなんて」
 僕も少し意地になっているのは分かっている。僕の考えていることなんて、本当はなんでもない小さなことなのかもしれない。だけど、魔法がおかしいことに変わりはない。
「もっと、喜んでくれると思ってた」
 摘希が僕の方に目線を合わせるわけでもなく、喋りだす。
「ずっとね、私ね。魔法、使ってなかったんだ、高校生の時はずっと」
 その理由は、僕が今思っていることに近い。
「怖かったんだ。魔法なんて、嘘みたいじゃない。だから、高校生の間はずっと使わなかった。だけど、大学生になってからかな。使わないと、私駄目なんだよね」
 僕はなんとか即答できた。
「そんなことないよ」
「ありがと。でも、今自分のことは魔法なしじゃまともにできなくなってる。もう私は魔法と一緒」
 それは、今でも魔法がおかしな力だって分かっているということ。それでも、頼らないと自分が保てないと言う。
「だからさ。もう魔法、使うことに決めたの」
 それは優しい言葉だったけど、僕に諦めろと言っている。
「分かってるんじゃ……」
 摘希に遮られる。
「強情過ぎ。もっと前向きになれないのかな」
 結局お互いに譲らない。それでも、魔法を使うのは僕ではない、摘希だけだから。摘希は願いを口にする。
「魔法を、君のために使いたい。君だけじゃなくて、多くの人のために使いたい。そう思っちゃ駄目なのかな」
 その答えは、涙が出そうなほどに摘希らしい答えだった。その結果が何を招くかなんて、誰にも分からないと言うのに。僕には返す言葉も見つからない。
 それでも摘希は続ける。
「私が魔法使えるようになったのって、きっと何か理由があると思うの。今は私と君で二人占めしちゃってるけど、もっと素敵なことに使えるはず。せっかくの魔法なんだから」
 摘希は、魔法を使って何か特別なことをしなくてはならないと思い始めている。そう思うことで、魔法を肯定化しているのは、間違いない。僕はそう考える。
 だから、結局僕には摘希を怒らせることしかできない。
「あぁ、優しくない優しくない。今日はもう帰るね」
 僕の背後で、玄関の戸を開けて出て行った。気をつけてと一言言おうと、すぐに裸足で外に飛び出たが、摘希の姿は忽然と消えていた。
 一気に部屋の中が物静かになって、寂しくなった。摘希のいた空間を詰めようと、僕は足を伸ばして寝そべってみた。畳の上であってもどこかひんやりとして、長い間そうしていられなかった。不条理だけど、それは僕に対する罰のように感じた。
 今日の摘希はそこまで怒ってはいない。だから、明日になればまたいつものように話せるだろう。少しくらいはぎくしゃくするかもしれないが。
 摘希が魔法使いだと告白してから、着実に僕と摘希との関係は変わりつつある。そしてそれは、摘希の希望とも、僕の希望とも違う道をたどっていた。
 ただ僕は、摘希が無茶なことをしないようにと願うばかりだった。



 ついに決定的な事件が起こった。
 それは、摘希の父親が交通事故で一度亡くなった時のこと。母親から電話がかかってきて、摘希はすぐさま魔法で実家に帰った。僕は摘希から直接電話をもらって、電車を使って急いで向かった。その時の摘希は、嗚咽が混じりほとんど声になっていなかった。
 先に言うと、電車の中の僕はもうその結果に気がついていた。だからこそ、葬式の場で摘希にかけてやる声が思いつかなかった。
 葬儀の場では、誰もが突然の死を悲しんでいた。不慮の交通事故だと言える。町役場に勤めていた摘希の父の通勤途中、飛び出したバイクを避けようとハンドルを切ったところ、そこに大型トラックが突っ込んできた。トラックの運転手は軽い打撲程度ですんだが、軽自動車に乗っていた摘希の父は胸部を強打、臓器の圧迫による内臓破裂と内出血、それが死に繋がった。摘希の父親はまだ五十代前半であり、この世を去るにはまだ早く、誰もが死を惜しんだ。
 喪主である母親の隣に摘希はいた。僕は摘希を見つけると、摘希の方から寄ってきて、僕の胸で泣いた。できうる限り優しく抱きしめた。僕の方は泣くことなんてできなかった。
 葬儀自体はしめやかに行われた。焼香、読経も終わり、閉式され、いよいよ出棺と言う時に、それは起こった。棺が動いたのだ。不自然に揺れる棺を、葬儀業者が恐る恐る開けてみると、元気な顔をした摘希の父親が現れたのだ。場は騒然となったが、すぐに歓喜に変わった。
 気がつけば、摘希がいなくなっていた。摘希の母親に聞いてみると、摘希は忙しくて早めに戻ったと言っていた。長居をする理由もないので、僕もすぐに戻った。
 摘希に聞くまでもなく、僕は魔法のせいだと確信していた。その帰りの電車の中で、摘希にかける言葉を考えていたが思いつかなかった。僕の頭の中で駆けめぐる考えは、常に魔法に否定的だった。
 自分の部屋に着き、鍵を回すと鍵が回らなかった。かけ忘れかと思ったが、中に入ると先客がいた。摘希が部屋の端でうなだれていた。
 僕の姿を見つけると、摘希は再び僕の胸の中で泣いた。それが嬉し涙なのか悲し涙なのか分からなかったが、とにかく泣いていた。僕はできる限り摘希の味方でいたいと思った。
 そしてひとしきり泣き終えた後は、お腹が空いたと言って、指を振りハンバーグを呼び出して二人で食べた。味などほとんど分からなかった。摘希がまともに話ができるようになったのは、さらにその後だった。
「少しは落ち着いた?」
「……ありがとう」
 摘希は涙でぐしゃぐしゃになった顔で微笑んだ。
「ねぇ、聞いて。私考えたの。魔法ってこうやって使うのかなって」
 摘希は僕から目を離さない。その瞳は、僕に喋らせない。
「誰にも分からないように、魔法を使うの。少しずつ、みんなに幸せを分けていくの」
 摘希は僕から目を離さない。摘希は分かっている、僕はそれを否定することしかできないと。
「私には、こういうことしかできないから」
 その声は、かすれていた。今日の僕の仕事は、摘希を抱きしめてやるだけでいい。明日から、また摘希と話していけばいい。
 それから、摘希はそのまま眠ってしまった。色々ありすぎて心身ともに疲れたのだろう。摘希の父の復活を、素直に喜べないのは僕と摘希だけだから。
 日が昇り、僕が目を覚ますと、すでに摘希はいなかった。置き手紙はないかと探したが、見当たらなかった。だけどそのときに、おかしな物を見つけた。
 それは、台所の隅に丸まって落ちていた。ここの近くのスーパーマーケットのレシートだった。その日付は昨日を示しているが、僕は昨日行っていない。最初は摘希が行ったのかと思ったが、その購入物を見て驚いた。
 冷凍食品のハンバーグだった。そして思い当たるのが、昨日摘希が泣きはらした後にお腹が減ったと言って呼び出したのもハンバーグだったこと。
 確かに昨日僕と摘希が食べたハンバーグは、魔法で出現させたものだった。だが、このレシートはなんだろう。サンタクロースの忘れ物ではないだろう。誰かが魔法を叶えるために、このハンバーグを買っておいたことになる。
 もし摘希の魔法と言うのが、実は全て摘希の仕込んだ手品だったら、僕はそれに踊らされているだけだったとしたら。それが一番納得できる結果なのだが、あのテレビ画面が切り替わるように物が出現する様を見た手前、そんなことをもう納得できなくなっている。
 しかし、僕の唱え続けていたエネルギー問題はこれで意味を失った。現実として、ハンバーグが消費されていたのだ。物を生成させるために必要なエネルギーは、不要になった。僕は摘希の魔法に異を唱える理由を一つ失った。
 だからといって、魔法に対する気持ち悪さがなくなったかと言えばそんなことは全くない。むしろ、魔法を成立させるために買ってくるような幇助する存在がいることを、認識させられたのだ。しかもその技は、人のようには思えない。
 一体摘希の魔法とはどんな仕組みなのか。分からないままに使うにしては、危ないように思う。魔法を使うのをやめるべきだ、僕は摘希にそう言うつもりだ。

   五

 父親の一件からの摘希は、どこか空元気だった。
 魔法を人のために使いたい、そう宣言してみたところで、具体的に何をしていこうか、迷っているようだった。魔法のことを僕以外の人におおっぴらに言うことは避けるつもりで、何かをしようとなると僕は小さな物の修理ぐらいしか思いつかない。
 それに、僕と顔を合わせて何か言われるのが嫌なのか、僕とあまり会ってくれなかった。僕としても魔法のことを摘希一人に抱えさせるのは嫌だったが、僕はなかなか摘希を捕まえることができない。それでも、たまに僕が部屋に戻ると、先に摘希がいることが何度かあった。
 その度に摘希は、元気良く振る舞った。無理をしているのはすぐに分かった。
「今ね、オランダまで行ってきたんだ」
 摘希が言う。摘希にとって瞬間移動は今やお手の物となっている。そのためか、時間があれば国外に足を運んでいるそうだ。魔法を旅行として、自分で消化している限り、僕は目をつむっている。
「楽しかった?」
「ハウステンボスも見てきたけど、やっぱり本物はいいね。チューリップ畑も見てきたよ。君にも見せたいよ。そう、次の土日一緒に行かない?」
 こうやって、旅行に誘ってくれるのも初めてではない。その度に僕は、ごめんと言って断っている。
「強情だなぁ」
 悪態をつかれようとも、僕は僕で信念がある。
「本当に、摘希、体とか大丈夫なのか。家の物とか何かなくなっていたりしないか? エネルギーが使われてる分、必ずどこか減ってるはずなんだ」
「分からないけど、きっと大丈夫」
 そう言っていつも摘希は笑ってごまかす。魔法を使い続けることで自分を保っている摘希を見るのは、痛々しかった。
 こんな生活が一ヶ月ほど続いた。その間に、僕の元に摘希が訪れたのは五回。その六回目と言う時、現れた摘希の方から、掴みかかってきてこんなことを聞いてきた。
「この魔法で、戦争孤児を救うにはどうしたらいいと思う?」
 その眼差しは旅行の話をしている時とは違って、真剣だった。
「突然どうしたんだい」
「真剣に考えてみて。この魔法を使って、何すれば食料問題とかが解決できると思う!」
 今日の摘希はどこかおかしい。熱に浮かれている。
「そんな簡単な問題じゃないだろう」
「だったら、私には少なくとも何ができる? しっかり考えて!」
 僕の出せる結論は決まっている。
「そんなことはやっちゃいけない」
 摘希の叱責は続く。
「ばかー。頭固すぎ。もしもの話で良いの」
 僕の方も頭にきた。僕だって、何も考えていないわけじゃない。
「バカとはなんだ! 摘希こそ、そんな魔法魔法って訳の分からないもの使っていたら、いつか悪魔にさらわれるぞ!」
「何よその言い方。分かってるけど、私にはもう魔法しかないんだから!」
 今日の摘希はしつこく、ここで消えていかない。
「考えてみるよ。だけど、魔法を使うと、誰かが助かって、その分どこかでしわ寄せがくるんだ。だから、一緒なんだよ、結局」
 僕の方も一気に言い切る。それでも、摘希の勢いは衰えない。
「そこまで考えてくれるのが、君じゃないの!? 今ね、私ね、戦争孤児って呼ばれる人たちに会ってきたの。その子達を見てきてね、本当に、可哀想とかじゃなくて、みんな必死に生きてて凄いなって、感動したの。だから、だから、少しで良いからその子達に楽をさせてあげたいって思ったの。私の言ってること間違ってる!?」
 摘希の目が潤んでいる。ここまで必死になる摘希を見たのは初めてだった。僕は正直、怖かった。何をするか分からない摘希が怖かった。だからといって、ここで摘希を止めるのが、僕の役目だと思うから。
「魔法じゃなくても、できることだよ」
 摘希が求めているのはそんな答えじゃないって分かってる。だけど、言わずにはいられない。
「やっぱり君は、魔法だから駄目、駄目って。義理と人情でもどうにかならないけど、もうちょっと考えても良いと思うよ! 君の頭は科学しかないみたい。そんなことがそんなに大事?」
 科学に触れられたらこっちだって黙ってはいられない。
「そんなことしかってなんだよ。僕だって毎日毎日勉強してるんだよ。僕らの世界には魔法なんて便利なものはないから、一個一個理論立てて、工業化して、それで今の生活が便利になってるんだ。それはそう言う基礎があって、信頼して使っているから。なのに摘希の魔法は」
「もう、知らない。勝手にするよ」
「あぁ分かってない。それが勝手なんだよ。エネルギー量のイレギュラーは素粒子の世界で観測されているだけなんだよ。魔法がその単位で整合性を持って起こっていたとしても、こんなにはっきりした流れは存在しえないはずなんだ。だからこそ、魔法を使うのは間違っている。分かった?」
 ……。
 ……。
 言葉は返ってこなかった。熱く語っているつもりで、気づいた時には摘希の姿はなかった。また、音もなく瞬間移動したのだろう。一人語っていた僕が本当にバカの様だ。
 残されたのは、摘希が呼び出した三つのストーブ。男の一人暮らしで三つも使うのは勿体ないと、ベランダに出すことにした。
 そしてベランダでおかしな物を見つけた。覚えのない二つのダンボールが畳まれて、廃品回収に出すためか紐で縛ってあった。ダンボールのラベルを見ると、このストーブが入っていたことが分かる。やはり、悪魔か何かはいる。
 今更悪魔を気持ち悪がるよりも、僕は摘希のことが心配でならない。今度こそ、何をするか分からない。それに、先の自分の態度も悪かったと思ってしまう。
 自分一人になって広くなったこの空間に向かって、ため息をつき、独り言。
「やってしまったな」
 虚空につぶやいても、僕に摘希を追う手段はない。

   六

 摘希を見なくなって、また一ヶ月が経った。摘希とは、同じ大学であっても学部が違えば校舎が違い、すれ違うことなんてほとんどない。全く摘希の声を聞かずに過ごすなんて久しぶりだった。
 季節はまだ冬を残していた。春一番が吹いたかと思えば、数日はまだ寒さが残る。そんな頃合いだった。大学では試験が始まり、僕は摘希のことを忘れてそれに没頭しなければならなかった。
 その間、携帯でメールを送ってみたが、メールアドレスを変えたのか、宛先不明で返ってきた。本格的に嫌われてしまったのか。
 それでも、僕は毎週のように摘希のマンションの戸を叩いていた。その度に、摘希がいないことを思い知ったが、郵便物がなくなっているところを見ると、摘希は帰ってきているのだろうと解釈した。
 帰っているかを確認するついでに、郵便受けに直接入れれば良い。もし返事が返ってこなければ、もう摘希について考えるのはやめようと思った。摘希とも、魔法ともお別れをして、自分の知っている科学とだけ向き合えば良い。
 よし書こうと、机に便箋を広げる。手紙を書く習慣などないから、コンビニエンスストアで買ってきた事務的な便箋しかない。それでも今はかまわない。
 最初に『摘希へ』と、書いた。
 僕が魔法について考えていること、僕が魔法をおかしいと思うことについて、摘希にも分かるようにと、できる限り丁寧に書き綴った。一通り書き終えると、便箋の枚数は細かい字で五枚に及んでいた。それを改めて読み直してみると、この言葉を摘希に言い聞かせている自分の姿が見えて、バカらしく思えてきた。そう、摘希はこんなことを僕に期待しない。躊躇いはあったが、破り捨てた。
 再び、『摘希へ』と綴り、何を書こうか、何を書けば摘希は喜ぶか、ずいぶん迷った。結局僕が用意できたのは二言だけ。

 摘希へ
 僕は摘希を信じているけど、無茶はしないように。
 何をしているか教えてください。返事、待ってます。

 その日の夜に摘希のワンルームを訪れてみたが、案の定いなかった。摘希に届くことを願って郵便受けに差し込んだ。その日も、雪が降っていた。
 返事は意外と早く返ってきた。摘希に手紙を出してから一週間後の朝、出かける前に郵便受けを確認すると、水色のかわいらしい封筒が、切手も貼られずに入っていた。昨日の晩に摘希は来たのだ。
 急いで中の便箋を取り出す。それは、確かに摘希の字で綴られていた。今、摘希が何をしているかについて。
 それは、成功の記録ではなく、失敗の報告だった。食糧支援をと思って、米軍が輸送機から投下する食料と、同じ物を魔法で作り出した。しかし、それを巡って争いが起こり、結果として新たな死人が出てしまった。また、その人も蘇らせたと書いてある。
 水の少ない地域に、井戸を作ってみた。しかし、その井戸はまもなくして枯れてしまい、根本的な解決にならなかった。だけど、一時、水を与えられなかった子供達が、心ゆくまで水を浴びることができた。
 摘希は自分の知識のなさを、恨んでいると書いてあった。それともう一つ、こんなことが書かれていた。

 今、私がやったって分からないようにひっそりとやってるから、君の車の時みたいに、誰も感謝してくれない。でも、それが魔法使いなんだよね。

 摘希なりのポリシーで、健気に活躍しているようだった。ひとまずは安心した。それに、上手くいっていないことが、より僕を安堵させた。その魔法自体も、何かの因果に制約されている様だから、きっと少しくらいなら世界のバランスは崩れずにすむ。
 ここで一つ気になった。以前摘希は魔法で、交通事故で亡くなった父親を蘇らせたことがあった。これほど大勢の前で使った魔法はなかっただろう。では、社会的にはどう処理されているのだろうか。試験勉強もままならなかったが、不思議に思ったからには行動してみることにした。
 まず、摘希の実家を訪ね、母親に会った。名前を告げると、摘希から名前は伺っていますと言われて、家に上がらせてもらい、丁重なもてなしを受けた。僕のことを、仲良くしている学友ぐらいには紹介してくれているようだった。母親にその時の夫について聞くと、失った悲しみと蘇った喜びについて感情を交えて長々と話してくれた。やはり摘希の母親だった。
 そして、事件の真相を聞いた。それは、ものすごく単純な、患者の取り違えによる診断ミスだった。同じ時に、交通事故で同じ病院に運ばれてきた患者がいて、その患者の死亡という診断結果が、摘希の父親に誤って適応されてしまったのだと言う。
 葬式の席で立ち聞きした事故の内容とも異なっていた。車は大破したが、エアバッグが動作したため身体は無事であり、衝撃のショックによる一時的な意識不明状態だっただけと言う。
 つまり、事実が変わっていた。そしてその事実を変わったと気づけるのは、僕と摘希だけだということ。
 そうなると、今までの謎のレシートやダンボールについても説明がつく。レシートでは、コッペパンを出現させるために、過去の僕が買ったことにした。確かに僕は、レシートをとっておかずにすぐに捨てる癖がある。そのレシートが残っていたのだ。
 ストーブのダンボールも同じ。変わってしまった事実では、僕自身が三台のストーブを購入したことになっていて、外のダンボールはその名残と言うことになる。
 瞬間移動は、事前にそこに移動していたことにすれば良いし、今は飛行機が存在するため外国であっても叶えることができる。出先から帰って来るという魔法も、ただ行かなかったことにすれば済む。
 こうなると、摘希が失敗した理由も想像できる。支援食料の生成は、新しく作り出すのではなく、他からの食糧支援をただ人の手で運んだだけなのだろう。
 摘希が魔法を使って何かをしようとしても、過去が変えられてしまう。そのなかでも過去の記憶を書き換えられない特別な存在に、僕と摘希はなっているようだった。

    七

 摘希が帰ってきたのは突然だった。春の陽気が、冬の寒さを凌駕するようになった頃で、丁度摘希の誕生日だった。試験が終わってから始めたアルバイトから帰ってくると、久しぶりに先客がいた。
 摘希の姿を見るのは、かれこれ二ヶ月ぶりだった。摘希は勝手にテレビをつけて、つまらなそうに見ていた。
「……摘希、おかえり」
 思わず声が震える。摘希は、顔をテレビからこちらに移し、そして微笑んだ。
「ただいま。でも今帰ってきたのは君の方、おかえり」
「ただいま」
 自分の部屋に居心地の悪さを覚えながら、入り込む。摘希が指を振りテレビの画面が消え、一気に部屋が静かになる。僕はテレビの前、摘希と対面する場所に腰を下ろした。
 お互い、それ以上の言葉が見つからなかった。いつもなら視線が絡み合うのに、今日はお互いにずれていた。そのまま、音もないままに時間が過ぎていきそうだったから、僕はとりあえず声を発する。
「楽しかったかい」
「うん、楽しかった。でも、つらいことの方が、やっぱり多かった」
 それから、摘希の話を聞いた。魔法を使っているのに、色々なことが上手くいかないこと。その憤り、不甲斐なさ。魔法を使うことで、さらに争いが起きてしまったなど。今まで日本でぬくぬくと育ってきた摘希の言葉とは思えない、壮絶な報告だった。
「だから、私はもっと勉強して、この魔法で救えるようにならなきゃ。せっかくの魔法なんだから」
 一通り摘希が話し終える。その間、僕は言葉を挟まずにいた。まあ、小さな口争いから、摘希に消えて欲しくなかったから。
 そこで摘希が提案した。
「そろそろお腹空かない? 君の食べたいもの出してあげるよ」
 そこで僕は一つ思いついた。魔法で出した食事しか取っていない摘希に、僕の手料理を食べさせてやりたい。今日作るつもりだったシチューでも、食べさせよう。ちょっと、春先にはもう遅いかもしれないが。
「僕がシチューを作るよ。だから、摘希はちょっと待ってて。忙しくはないんだろう」
「えっ、そんな。良いよ、私が出すよ」
 魔法で出したとしても、結局僕が作ったことにされるのだろうけど。つまりこれは。
「僕の意地なんだ。摘希は見ていてよ。時間かかるけど、良いよね」
 摘希は、困惑しながらも頷いてくれた。なるべく摘希に魔法を使わせないように、今日は僕が動こう。
 調理を開始する。もともと摘希は手先が器用な方ではないから、魔法を使える現在は食事を一から作ることなんてなかっただろう。
「料理って大変なんだね」
 苦労知らずの摘希が背後から興味深げに声をかけている。ずっとテレビを見ていたのだが、暇になったようだ。
「ただの人間に対する当てつけか?」
 あくまで冗談めかせた口調で、半ば本気で。
「違う違う。あっちはもっと大変そうなんだよ。だって、火がないんだよ、火が」
 それでもこの苦労と楽しみを摘希は知っているわけではない。
 摘希が手伝いたいと言い出しても、駄目と言ってずっと座らせていた。仕方なく最初のうちは見ていたテレビも飽きて、僕への口出しも通用しないと知ってか、本棚や机の中を物色し始めたようだ。ここで気にしてはいけない。どうやら、懐かしの携帯ゲーム機をどこからか見つけて、それで遊んでいるようだったので、良しとしよう。
 後は煮込むだけとなり、部屋の片付けに移る。いつ摘希が来ても良いように、常に部屋を片付けてはいた。今日はつきあい始めて最初の摘希の誕生日だから、部屋を少しくらい何か飾ったって良いだろう。
 摘希に断って、急いで近くのスーパーマーケットに、コタツの上に飾る花、シチューのための器とスプーンも購入して、そしてケーキも買った。
 戻ってくると、摘希が鍋のふたを開けて舐めていた。摘希をたしなめて座らせてから、今買ってきた器にシチューを注いだ。
 準備が整い、改めてお互いに机を挟んで向かい合って。
「二十歳の誕生日おめでとう」
「ありがとう。いただきます」
 僕の意地を、摘希は口にした。食べている摘希を見ているだけで僕は幸せになれた。
 冗談めかした話をしながら、食事は進んでいく。この時間は魔法使いと告白する前までの、摘希と僕だった。もしかしたら、僕はあの頃に戻りたいのかもしれない。
 でも、今は違う。今の摘希と対峙することが僕の役目なのだ。摘希に何かあっては僕が悲しむから、摘希の知らない魔法の効果で何かが起こっては遅いから。
 だが、そんな話を摘希にはできなかった。ここ三ヶ月まともに話していなかった反動か、ただ楽しくお喋りしていることが貴重に思えて、ついそれに興じてしまう。摘希が好き、それだけだった、あの頃のように。
 だから、その摘希の言葉は、僕にとっても不意打ちだった。
「でね、もしかしたら、君と会うのは最後かもしれない」
 一瞬世界が凍り付いたような気がした。笑っていた摘希の瞳はいつのまにか、真剣な眼差しへと変わっていた。
「いきなりなんだい」
 僕も、分かってはいたのだ。今日のうちに、結論を出さなくてはならないことくらい。
「分かってるくせに。私は、これからも、誰かのために魔法を使い続けたい。自分にできることを続けていきたい。私は今それをしたいんだ。もし、君がそれを拒むんだったら、私はもう君の前には現れないよ」
 一気に言い放った。その目は鋭く僕を見据えていた。
「君は、私を応援してくれるんだよね」
 当たり前だ。その言葉が喉まで出かかった。摘希と真剣に魔法に向き合って、本当に世の中のためになることを考えたら、すばらしい未来が待っているかもしれない。それを誉められるのは僕だけだから、喜び合えるのは僕だけだから、自分を殺してやっていけたら楽しいかもしれない。
 しばらく喋れなかった。摘希は僕の目を見つめて離さない。僕のこの一つの言動が世界の未来と過去を変えてしまう気がして。僕が正しければ、摘希が魔法を使うほど世界が変わっていく。それをどうしても引き留めたい。だけど、そんなことよりも摘希と一緒にいたい、そんな気持ちもある。
 だけどその状態にくらくらしていたのではない。もう、その覚悟はできていた。ただ、摘希の真摯な瞳に、声が出なかっただけなんだ。
 摘希が期待している答えは分かっている。摘希も僕が出す答えは分かっている。それがどんな結果を招くかも分かっている。それでも摘希は、この質問をしたのだ。だからこそ、僕は言葉を返さなければならない。
 そして、僕は一つの言葉を紡ぎだした。
「戻ってきてくれ」
 僕の口からやっとの思いで飛び出た言葉。それに摘希の表情は陰ることなく、分かったよ、と言った。

   *

 春になった。冬の寒さが厳しかったせいか、桜の開花は遅れ、新しい一年を迎えるには少し寂しい雰囲気だった。それでも、二人で花見にも行ったし、魔法を使って桜前線を追いかけてもみた。
 あれからも、摘希は魔法を使い続けた。それを僕は見守り続けた。僕も時々魔法に頼るようになった。摘希は僕ら二人のためだけに魔法を使い続けた。
 魔法を使っていて、今のところおかしなことになったことは一度もなかった。摘希の魔法を叶えている悪魔が、上手く機能しているのだろう。僕はその過去を変えられた鱗片を時々見ることはあるが、摘希には変わらず気づかせなかった。
 魔法について分からないことはまだまだ多い。今後何事もなく過ごせる保証は何もない。けれど、今の魔法使いとの生活は、充実しているし、僕は好きだった。潜在的な恐怖はあっても、僕は好きだった。
 あの時の判断に後悔するつもりはない。そう、あくまで、摘希は僕の魔法使いだから。

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