クガハツネ

 息もかかるほど密接したこの空間。話すことでさえ不自由な近すぎる距離。その場で体が触れ合ったとしても、空間のせいにしてしまえるほどの密度。何の疑問も持たずに、箱に押し込められて運ばれていく人々。通勤時間の電車というのは、多くの人間が時間と場所を共有しながらも、それぞれが隔離された空間。密接しながらも個々の空間は確かに守られていた、それが二人であろうとも、一人であろうとも。他人を貫くそんな場所だった。
 そこに二人の高校生がいる。男と女、ずっとお喋りしている。確かに話すには不自然すぎるくらい密接した距離。相手を抱きしめようと思えばすんなりと腕に収まってしまう、意識して顔を近づけようとしなくても自然と息がかかってしまう、そんな距離。その二人はお互いに楽しそうに、お喋りをしている。周りは通勤途中のサラリーマンばかり。その中で、二人だけの空間は作られていた。
 そう、この二人の男女の関係がどの様であったとしても、この密接しすぎる距離はこの空間では保たれ、いや、強制されていた。それを望もうと、望んでいなかろうと。

1

 朝はいつも変わらない姿を見せる。いつものメロディーが目覚ましから流れ、いつものテンポで布団をまくり、寝ぼけ眼のまま制服の袖に腕を通す。寒さが身を包み、カーテンを勢いに任せて開くと、溢れんばかりの日光が目を覆う。これもいつもの事。そんな事に意識など向くはずもなく、いつもと同じ時を過ごして、いつもと違う世界へ旅立つ準備をする。
 いつまで経っても進歩しない食パンは焦げ目を見せ、洗面台の水が第二の目覚ましとなり、テレビと新聞はいつもと違うニュースを告げるが、それで変わる日常ではなかった。
 朝の儀式を終え、調子よく家を飛び出す。頭の中はすでに今日を起こるであろう出来事の事で一杯で、日常の事など歯牙にもかけない。そう、それ自体が日常の定義であるかのように。
 その青年、和坂秋俊はそう考えていた。日常は繰り返される部分と繰り返されない部分に分けられ、繰り返される部分は記憶に残らないまま日常と言う名を与えられて埋もれていく。繰り返されない日常こそが大切で、それのために日常が存在する。さらには、歳を取る事はこの割合が前者に傾く事だ、そうとも考えていた。スポーツもそれなり、勉強もそれなり、取り柄と言えば人より少し将棋が強いくらい。ゆえに周りからそうだと認知されない。そんな青年和坂は考える事が好きだった。そしてなによりも、三ヶ月前から付き合いだした竹元佐奈恵が好きだった。
 和坂の家から最寄りの駅までは、実際自転車でも十五分ばかり要する。晴天の日はまだ良いが、雨の日は人の押し合うバスでそこまで行かねばならず、和坂を憂鬱にさせる。だが、今日は近所が朝から犬を散歩に連れ出すほどの朗らかな天気であり、十月の肌寒さを除けば、なかなか良い天気だと言える、そう和坂はペダルを踏みしめながら考えていた。
 駅は地方駅さながらの混み合いを見せている。朝と夕方にしか顔を見せない職員は、大きな声で挨拶をかけながら次々と振りかざされる定期券を文字通り眺めている。急行が素知らぬ顔で通り過ぎるのを、恨めしく感じてならないのはこのホームにいる人間全てだと思っている。しばらくして、しかるべき時間より一分早く電車はホームに滑り込む。そそくさと乗り込む、降りる人などいない。これが日常だった。
 そして、これも和坂の日常の一つに含まれていた。
 混み合った車内でその相手を見つけると、人を押しのけて相手の前まで進む。今日はいつもより、少し、混み合っているようだった。
「おはよ」
「オス。おはよ」
 毎日代わることのない朝の挨拶、その相手が先手を打った。和坂と同じ時間帯に通う友達、玖珂初音はいつもそうだった。

2

 和坂が来ると、玖珂は和坂のために少し場所を作る。そのちょっとした心遣いが和坂は好きだった。それは単なる好意に過ぎなかったが。
 突然、でもしかるべきタイミングに、玖珂は話し始める。昨日作った魚の切り身入りカレーの話。ただ和坂はそれを聞いている、時々相づちを打つ。切り身が溶けて見えなくなっただの、魚からはダシよりも生臭さが残っただの、たわいもない昨日の話。玖珂はそれをとても楽しそうに話す。だから和坂はその時間が好きだった。
「ねぇ。運動会、弟の小学校の見に行ったら、山崎先生がいてびっくりしたんだよ」
 それがどうしたんだと言いたい所を、「山崎先生に子供いたっけ?」と首をひねる。山崎先生とは玖珂のクラスを担当している日本史の先生のこと。和坂は担当してもらったことなどないし、第一日本史すら履修していなかった。いつもの事だった。
「さぁ、知らない。でも、本当に居たんだよ」
 玖珂が考えている、ように和坂には見えたが、そうでない事を知っている。時折、玖珂はこのようにお題を出す。それは単なる玖珂の自然な行為であったのだが、ここで自分が試されるように和坂は勝手に考えていた。
「実は、山崎先生は奥さんに尻に敷かれているとか」
「……どうして」
 怪訝な表情。いつもの事。
「まずな、山崎先生は子供がいない。だから小学校の運動会に行くはずがない。それが普通の考え方だな」
「う…ん」
「だが、この中で疑うとすれば、山崎に子供がいないこと。それは今の奥さんに子どもがいないと考えるだけでいい。だから前に結婚していた奥さんとすでに子供を作ったけど、でも別れてしまった。だけど、子供の様子が見たい、その一心に運動会に訪れたというわけだ」
 言い切った。周りが、他の乗客がどう思おうと和坂は言い切った。これに、玖珂は口元を少し、つり上げた。
「でも、それ、ハズレだね。きっと」
 いつも、その一言だった。
 玖珂には悪意はないはずだ、そう和坂は信じている。でも、和坂にとっても玖珂といる事は純粋に楽しかった。ただの知り合いから、きまぐれで違う車両に乗った事から和坂の日常に加えられた出会い。
 そして玖珂は最近のホラー映画は秋まで延長営業している事について話し始めた。また、和坂は聞き手に回る。次々と変わる玖珂の話。玖珂はとにかく喋る事が好きなのだ、誰だって良い、喋る事が好きなんだ。和坂は楽しんでいた。
 本当は、恋人とこの時間を過ごしたい。玖珂と話ながらも和坂の頭によぎるのは恋人竹元の笑顔。生憎、和坂達と違って竹元は朝に弱かった。早起きだった和坂が何度自分のポリシーを捨てようと思った事か、恋人の竹元の前で言えるはずがない。意地だと分かっている。
 途中、一度乗り換えをして、急行で学校の最寄りの駅まで向かう。和坂が時間を変えれば、竹元とこの駅で会うはずだった。今和坂の隣に居るのは玖珂であり、日常の枠として喋り続けている。蛙の口の中に爆竹を入れる小学生が信じられないそうだ。
 学校の最寄りの駅に着くと、そこから学校までは歩いて五分ほどで着く。まだ朝の早い時間。人口過多のこの街にして、人が疎らなこの時間を和坂は好きだった。きっと玖珂も好きだろう。
「じゃあね」
「おう。じゃあな」
 クラスが違うから自然と別れる。そして和坂と玖珂はそれぞれの日常へ戻っていく。和坂は玖珂が毎朝図書室に行くのを知っていたが、そこまでついて行くのは不粋に思えた。興味はあったが。
 学校までおおよそ四十分の道のり。そこは和坂と玖珂の共有する一つの日常だった。

3

 竹元はいつも眠そうだ。エンジンがかかるのはいつも午後に入ってから。「夜何してるんだ?」と聞いても、「秘密基地!」としか答えない竹元に、和坂はそろそろ痺れを切らし始めていた。竹元の事だから、何か企んで驚かそうとしている事は分かっていたが。それに和坂は「秘密基地は男のロマンだ。サナの仕事じゃない」と返答するのも日常になっていた。和坂は竹元をサナと、竹元は和坂をアキと呼んでいた。
 もう付き合い始めて三ヶ月か、などと和坂はしみじみと思っていたりする。もちろん竹元には内緒だが、まだキスの回数はなんとなく数えていたし、まだ本格的な事に臨んでいない事に、少々焦りを覚え始めていたりする。それは和坂一人だけだと思って気を落ち着けている訳だが。
 それでも、放課後は大抵竹元と一緒に過ごす。言ってしまえば、同じ美術部だった。それも日常であり、それは変わらない日常の中でも好ましい日常、続けたい日常だと思っていた。そして、どちらかと言えば竹元より和坂の方がお喋りだったのを、よく竹元に戒められた。
「うるさいなぁ。もっと集中しないと」
「絵は楽しく描くもんだろ、楽しく。だから大丈夫」
「どういう理屈よ。だったらもっと幸せを噛み締めた様な絵を描きなさいよ。ほら、アグリッパもにやけてないよ」
 そんな日常が和坂は好きだった。部活が終わると、帰りの電車はずっと竹元と一緒だった。建物と建物の間からしか射さない僅かな夕日であっても、夕暮れの中を歩くのは恋人同士らしいと、和坂は満足していた。若者よりはサラリーマンの方が多いこの時間帯。規律良く歩くサラリーマンの中を二人で身を寄せて歩くのも好きだった。
 朝よりも混み合った電車。乗り換えの駅までの二十分。和坂は竹元を守らなくてはならない、そう考えていた。自然と竹元を壁側に、自分を内側に移動させるのは至難の業で、竹元にそう悟らせても負けだと思っている。
「はぁ、アキもたまには寝坊しないの?」
 和坂の苦労もつゆ知らず、竹元はため息をつきながら言う。今日は好ポジションだと、和坂は一人で満足している。
「サナは夜何してるんだよ」
「秘密基地。アキが合わせてくれたって良いじゃん」
 実際、そうしたいのも山々だったが。和坂は『あからさまに嫌そうな顔』をしてみせた。
「早起きは良いんだ。電車は空いてるし、朝日は浴びられるし」
「でも、寒いよ、眠いよ、早いよ」
 真剣なまなざし。それが死活問題でもあるかのように。
「車内は暖かいよ」
「そういや、アキは朝は一人?」
「うん、あぁ」
 竹元に玖珂といつも通っている事を話した事はなかった。別にどうと言う事でもない、そう和坂は思っていたのだが、
「あぁ、男友達とね」
「和坂以外にもそんな物好きがいたんだ。で、誰?」
「男同士の秘密基地の約束」
「なにそれ〜、キモイし」
 お互いに笑いあう。
「よし、今度、嫌でもアキが朝寝坊したくなるようにしてあげる」
 この言葉に和坂はちょっと興奮したが、竹元がそんなつもりで言ってない事は分かっていたとしても、
「そうか、俺に眠れない夜を過ごさせてくれるのか」
「……過ごさせてやろうじゃない」
 あくまで今は車内である。
 和坂はこの空間を妙に感じずにはいられない。どこを見ても、誰とも視線が絡み合う事がない。密接していながら、距離の遠い、この電車という空間。ここに個人の世界があり、その場所を譲らない人々。こんな場所でも、二人でいると感じさせてくれる空間。道を歩いていてもこうは思わない。そんな空間を和坂は不思議に感じていた。それは玖珂の時も同じ。
 もし、玖珂と和坂が二人で過ごしている事を知ったら、竹元は怒るだろうか。今和坂の日常には、玖珂との日常も含まれている。できれば、それも嬉しい日常の一つだとさえ思っている。本当は竹元と過ごしたい、そのはずだけど。
 でも、まだ玖珂との日常は捨てられる、竹元のためなら。あとはいつお互いに折れるか、その時が来るまで。その間の短い日常を、和坂は楽しもうとしていた。

4

 竹元じゃないが、その日和坂は少し寝坊した。たかが十分程度の寝坊。これでは玖珂との時間に間に合わない。電車一本間に合わない。なるべく和坂は急いだ。とにかく急いだ。
 日常と定義していた朝を、非日常と化してしまう。早回しに食パンは焼かなかった。牛乳で流し込む。後に食べなければ良かったと後悔する。それでも、夜の仕事を持っている母はこんな時間に起きるはずがない。父は単身赴任だ。さらには一人っ子。世間の言うすれ違いの多い家族と言うのは、自分のような家族を言うのだろうか? 和坂家はどこにでもある家族のつもりだった。
 和坂の自転車で走るスピードも自然と速くなる。朝から重労働だった。妙に冷たい汗が首筋を流れると、思わずヒヤっとする。今日が雨じゃなくて本当に良かった。
 踏ん張りながら腕時計をみる。袖がなかなか捲れなくて苦労したが、このままだと時間丁度間に合うだろうと打算した。
 電車は既に来ていた。人が並んでいる改札口を煩わしく思う。どうせ定期を見せるだけなのだろうから、自分の顔くらい職員は覚えているだろう。だが、それを実行出来ないのも和坂だと分かっている。
 電車は目の前で無情にも発車した。ちらりと、玖珂が見えた。人山の中、いつもの位置で立っているような。和坂を待っている?
 乗れなかったとなると、ただ呆然として、和坂は椅子に腰掛けた。先まで人が座っていたのか、僅かに温かかったが、今は冷たい椅子が欲しいくらいだった。それに硬かった。
 一時をまたいで人気が減ったホーム。これが一日何回繰り返されるのだろうかと、いつものように考えに耽りそうになった。今度は温かかった椅子が冷えてきて、所在なげに立ち上がる。人が増えてきた。すぐに中年のサラリーマンがその席に座ると、彼は和坂とは目を合わさないばかりに新聞を広げた。一度目があった様に和坂には思えた。
 しばらくして、予定通りに電車が滑り込む。分かってはいたが、電車の中を覗いたが玖珂が居るはずもなかった。戸は閉まり、電車は走り出した。いつもより人が少なく感じた。
「非日常だ」
 そう、和坂は思ったついでに口に出してみた。口に出すと、よけいに惨めに感じる。
 気づく、和坂にとって玖珂との時間はこんなに必要なものだったのか? あくまで単なる日常に過ぎなかったはずだ。それを、今は必要に感じているのは。と、ここまで考えて和坂は思考を止めた。なにとなく今日は眠かった。
 そして、和坂が乗り換えの駅で竹元を待っていれば良かったと気づいたのも、乗り換えた後だった。

5

「昨日、必死に自転車こいだ俺の気持ちもつゆ知らず、電車は勝手に出発しやがった。目の前スルーしたのは、これが初めてだ」
 和坂が思わず玖珂にそう切り出したのはその翌日。前日に竹元には自分を待っていれば良かったのにと、釘を刺されてあまり笑い話にはできなかった。その鬱憤を晴らしたかったのだ。
「えっ、やっぱり和坂くんだった?」
 珍しく、驚いた表情をする。
「あっ見てた?」
「いつもの時間だったから、和坂くんだと思ったんだけど。やっぱり和坂くんだったんだ」
 見られたと分かると、惨めに感じずにはいられない。だから、和坂はつい言ってしまった。
「待っててくれても良いじゃん」
「……そうかもね。昨日、カボチャ入りハヤシライス作ったんだけどさ」
 その時、和坂はハヤシライスなんか気にかけずに、ただ純粋に、待っていてくれるんだと、心の中で驚いた。玖珂とは単なる日常を過ごすだけの友達だと思っていたから、和坂がそうやって定義していたから、玖珂がそう言った事に驚いた。
 もちろんここは車内。本当ならこの二人の距離は、話をするための距離ではない。話をするには近すぎる距離。特に今日は人で混み合っていた。だから間を詰めていたが、身体の一部が触れ合う距離だった。その中から、和坂は玖珂を守らなくてはなと、感じていた。
 和坂が安心した事、この共有する日常は、玖珂も楽しんでくれているという事。実際に和坂は言葉にして聞いてみたかった、だから、
「北京ダックと八百長って雰囲気似てると思わない?」
「あのさ、玖珂さん?」
 突然話を切られて、でも、嫌そうな顔はしない。
「今楽しい?」
「……楽しいよ。で、北京ダックって皮を剥いで皮だけ食べるでしょ。それに八百長だって」
 いつものように玖珂の話に相づちを打つ。ただそれだけだけど、その日常がやっぱり和坂は好きだった。そして玖珂も好きだと分かった。そして、和坂にはこの日常が必要だろう、そう感じていた。珍しく、主観的だと自分で感じながらも、和坂はそう思わずにはいられなかった。そして、玖珂もこの日常を望んでいるのではとさえ思うようになっていた。主観的だと、自分で思いながらも。

6

 これもよくある一日の一つに過ぎなかった。そう和坂は信じていた。
 和坂には別にちゃんと女友達もいたし、でも玖珂の事は特別だと思っていた。それは玖珂といる時間が日常として組み込まれたからであり、ただすれ違って生活するにはまとまりすぎている。近所の人に毎朝挨拶するこの感覚とも違う。そう、その名の通り、何か違う大切なものと考えていた。部活でいつも話すのは決まって竹元と言う訳ではなかったし、それが異性の友達だろうとだ。自然と竹元と話すことが多くなるのは仕方がないと、いや望んでいた訳だが。
 今日は雨だった。十月の雨はただでさえも寒く感じられる。そう、前までは二人でいるときには温度なんて感じなかったのに、今となっては肌寒さも共有し合える。それはお互いの余裕か、落ち着いてきたと言う事なのか。知った事ではなかったが、和坂と竹元はそんな時期だった。竹元はそれで満足しているようだったが、和坂の方は男の子だったから、そんなこともあったわけだ。
 竹元の秘密基地の内容が明らかになった。竹元は将棋の本を最近三冊読んだという。竹元が将棋をするなんて知らなかったし、いや、しないだろうと端から決めていた。その話は和坂にとって驚きであり、喜びであり、別段期待はしない事にした。
 せっかくの日曜日を家でデートする事になり、そこで竹元は対局を挑んできた。もちろん竹元の事だからタダで済まない。
「わたしが勝ったら一緒に寝坊しなさい。そして、わたしと登校しなさい」
 あぁ、そういう事か。和坂は正直に「嬉しい」と言った。和坂の取り柄は唯一将棋がちょっと強い程度だったから、竹元と対局出来るなんて夢のようでもあったし、さらには和坂を思っての事だったから、恥ずかしいくらいに。
 外は恨めしいくらい晴れていた。和坂は奥からコーヒーを入れてきた、それはにやけ顔を抑えたいが為に。
「代わりに、アキは何してほしい?」
 もちろんいろいろな想像が和坂に舞った訳だが、今度は砂糖を取りに行って、戻ってくると竹元に
「耳掃除してくれよ」と告げた。
「そんな事で良いんだ。ふーん」
 竹元の幾分残念そうな声に、和坂は素直に後悔した。
 和坂はぎりぎりの所まで追い込ませてから、逆転王手してぎゃふんと言わせてやろうか、などと考えていた。だが竹元は殊の外侮れず、中途半端なビギナーズラックの怖さを思い知った訳だが、予定変更し守り重視で駒を進めていた。するとたちまち竹元の駒が文字通りUターンする。最初調子が良さそうに「へへーん」としていた竹元も、ついには難しい顔をして、次第に「待った!」を連発するようになり、最後には盤をひっくり返した。
 竹元の耳掃除よりも膝枕の方が最初は気になって仕方がなかった。それに竹元のスカートは十月にしては短かったように和坂には思えていたが、ごりごりとした耳掃除が痛くて仕方がなくなり、結局根を上げた。
「で、わたしと一緒に朝寝坊してくれるの?」
 少し怒っている様子。
「……どうしようかな」
 反射的にそう答えてしまう。さすがに和坂もからかいすぎたと思って頷こうとした。その直前に、
「なにか早起きに良い事があるの? 三文分も」
 竹元に遮られる。良い事があるのか? 玖珂の事? その言葉に、和坂はつい玖珂を思い出してしまっていた。あぁ、そうかもな、実際そう考えてしまって。
「あぁ、そう。ならいいよ。わたし敗者だし」
 勝手に竹元が結論して、話を切った。和坂も機を逃したなと、思わずにはいられない。だが、玖珂と一緒に居られなくなるのは正直嫌かもしれない、竹元の顔を見ながらそんな事を考えている和坂自身が嫌だった。

7

 来週の土日をどうやって過ごそう、そう考えている自分が珍しいと、我ながら和坂は分析していた。普段の生活を考えてみると、そこには竹元の存在がある。竹元が十二月を祝おうと言って、今の内にバイトを始めたのが理由だった。朝の件で竹元は怒っているのかもしれない、和坂はそう考えていた。だが、和坂も和坂の意地で、「一人で福笑いでもしてやる」と宣言して家に引きこもることにした。
 暇の極まりに、午前中は寝て過ごそうと思ったが、運悪くも久しぶりに早く起きた母の上手くもない料理を手伝い、その上久しぶりに家中の掃除を母と始め、意外と充実していた。和坂の母は基本的に不器用な人だから、残念ながらその息子も不器用で、いつの間にやら夕方になっていた。夜は、ラジオを聞きながら昼間の疲れを癒していたところ、受験生がんばれと桃色の声をしたパーソナリティーが言っていたので、参考書を開いてみたりと、本当に充実していた。もちろん、夜は竹元に『おつかれ』とメールを送ったが、返ってこなかった。
 日曜日はいつもの時間に和坂は目覚めた。携帯をみると、深夜二時にメールの返信が来ていた。『疲れた! 癒して!』
 家にいても仕方がないので、とりあえず出かける事にした。本当だったら竹元と歩きたいのに、そんな思いに駆られていたが、男一人歩きも面白いだろうと手当たり次第の店に入った。店から漏れる古めかしいロックソングに惹かれて楽器屋に入ってみると、所狭しと並ばれたギターの山を見て、和坂はギターも良いかもしれないと、純粋に思考する。将棋にしか取り柄のない、いや、多趣味ながら将棋以外のものが続かなかった和坂は次はギターだろうと考える。まず店の一番のショースペースに他のものは違うとばかりに置かれたものの値段を見て、一度は店の外に出たが辺りを一周してまた入ってきた。店の自動ドアに迎えられて、ヒゲを生やして趣味の音楽家風情をした店長も気に入り、店長に勧められるままにアコースティックギターを購入し……なかった。どうせ長続きしないからと、拗ねていたのだが。
 和坂は同じ建物に構える大型書店に移動し、観念して将棋雑誌を立ち読みすることにする。本屋では音楽を流さない方が好きな和坂だった。控えめなクラシックでも妙に気に障る。そしてそこに、ただ偶然に玖珂が居た。
 ロングスカートにデニムのジャケットというちぐはぐなスタイルだったが、まず和坂は玖珂の私服姿を初めて見た事に気づく。
「おはよ」
 自然と言葉が出た。とうに日も高い二時頃だというのに、いつもの挨拶が和坂の唇から漏れた。そう、漏れたのだ。
「おはよう」
 実におかしなものだと気づいたのはお互い同時だったと、和坂は感じていた。玖珂は読んでいた料理雑誌から目を一時だけ離して、僅かに微笑んで、すぐに戻した。あぁ、負けた、そう和坂は感じずにはいられない。漏らした和坂と、それを意図もなく返した玖珂と。和坂はいつもの玖珂として片付ける事にしようとした。けれど、和坂は悔しかったので、
「玖珂さん」
 料理雑誌、ちなみに開いているページは韓国風麻婆豆腐であるが、そこから僅かに目を離し、元に戻す。聞いているという事だ。ここは古典的な誘い方で、挑んでみようと心に決める。
「お茶でもしない?」
 本を閉じる、その音が響く。そのまま返事をしない。時間が止まったよう。静寂と間。予想外の反応に、戸惑っているのは和坂の方だった。失敗だったか。
「嫌なら良いけどさ」
 店内のBGMが戻ってくる。先まで気にならなかったのに、その音が急に耳障りに思えてくる。
「……そう」
 一言そうつぶやくように発して、その料理本を持ち直し、
「じゃあ」
 振り向かずに、
「じゃあ」
 その言葉は日常だったから、自然に口から出てきていた。つまり、別れだった。さらに店内のBGMが大きく感じる。人の声も聞こえる。
 ただ呆然と、玖珂が店を出て行くまで見送って、その間一度も振り返らなかったが、それから和坂の時間は動き出した。BGMは再び消え、雑音は相殺され、和坂の世界が戻ってくる。
「はぁ」
 今日は嫌な日に決定だ、書きもしない日記にそう書いてやろうと思っていた。