フレンズハンター


第一章 発端

    一

 えっと、あたしは岩山楓。ここはあたしの部屋。時計を見ると今は八時三十分。
「うぎっ!」
 あたしは驚きのあまり声を出しちまった。
 あーもう、いつもの起きる時間を三十分もぶっち切ってくれている。こんな日に限って両親とも出張だなんて。
 とりあえずあたしは制服に着替えて、カバンを持ち一階に下りる。食パンを口の中に詰め込み、牛乳パックのラッパ飲みで胃の中へと流し込む。洗面台で寝癖をちょっと直したら、出発……の前にまだ口の中が物足りないので食パンを一枚口に放り込み、家を飛び出した。
 天に召されずに待っていろよぉ。あたしの皆勤賞!
 と、飛び出したところまではよかった。しかしこのパンがダメだった。穀物というものは他のおかずがあるからこそ食べられるのであって、牛乳も何もない今は全然飲み込めない。まだ口の外にある分を考えると、やっぱちゃんと食べてから出るべきだったな。うん。
 ……クチャクチャ
 ……あぁ、ヤな音。
 学校まであと半分と来たところで、後ろから誰かの走る足音が聞こえてきた。息の太さからしてたぶん♂だろう。そこの男子生徒よ、叱られるときは一緒だ。
 さすがに男だけあって足は速く、彼の息がだんだん大きく聞こえてくる。そして彼と横に並んだとき、彼の正体が判明した。嫌味にも彼は速度を落とし、あたしと並行して走り始めやがった。
「おまえも遅刻か」
 こいつ(彼なんて表現もったいない)は遅刻常習犯でありながら生徒会書記も務め、あたしと同じくラスでしかも席はご近所の、睦月拓哉だ。
「拓哉には言われたくない。それに、おまえってのやめてくれない。あたしにはちゃんと『楓』っていう名前があるんだから。あっ!」
 ついお喋りに夢中になってしまい、口に銜えているパンを落としてしまう。カバンを持っていない左手であわてて掴もうと伸ばしたが、パンはものの見事に左手の人差し指と中指の間をするりと通り抜ける。もうダメだと諦めかけたとき、外から新たな手が伸びてパンを掴んだ。
「拓哉、ありが……」
 あたしが素直に礼を言おうとした瞬間、拓哉は中にカバンを投げ上げ、そのカバンが宙を舞っている間に両手でパンを半分にちぎり、あたしの口の付いていない方のパンを持っている右手でパンをさっと口に入れた。そしてカバンをキャッチして、左手であたしの口にパンを押しつけてきた。拓哉の神業を唖然と見届け、今度はちゃんとパンを手で持ってから、
「こらぁ〜」
 結果として、拓哉にあたしのパンを取られたのだ。
「拾ってやったんだからいいだろ。アリの餌になるよりはオレの血肉になった方がいいだろ」
 人のものを奪っておいてなんだと言わんばかりに、あたしはまくし立ててやる。
「第一、アレは拓哉が取らなくてもあのままいけばつま先で蹴り上げてちょうどパクッと口でキャッチするつもりだったのに。まぁ取ってくれたのはよしとしても、別に割って食べることはないんじゃない。アレはあたしのなのよ。一言、半分もらうぞとでもいって了解もらってから食べるのが礼儀でしょ!」
 ふっ、勝ったな。
 ところが拓哉はたちの悪いことに、何事もなかったように走り去ろうとする。
「コラ、待て!」
 遠くからチャイムの知らせと共に、あたしはスピードを上げた。

 荒川中学校校門前。
 状況が違った。
 普段の荒川中学の校門には風紀委員と共に、週番の教師が睨みを効かせて遅刻の生徒を取り締まっているはずである。しかし今日は、まだ経験の浅そうな婦人警官が二人立っていた。校庭には二台のパトカー。そして今、けたたましいサイレンを鳴り響かせて救急車が入ってきた。
「何かあったんスか?」
「生徒の一人が刃物のようなもので刺傷したという通報がありまして……ちょっと君!」 あたしがいくらか驚いているのに対し、拓哉の反応は早かった。すぐさま校舎に向かって走り出したのだ。
「待って」
「なんでおまえを待たなくちゃならないんだ」
「だからおまえはやめろっ、つーの!」
 拓哉は口調からしてかなり焦っているようだった。拓哉の姿は階段辺りであたしの視界から消えたが、とにかくざわめきの聞こえる方、北校舎の上へと向かった。
 普通の教室の四分の一くらいの広さしか持たない生徒会室付近の廊下には、多くの生徒がごった返していた。野次馬生徒の中には同じくラスの白・リーちょん・トールブルーもいる。風紀委員がもう予鈴はなりました、早く教室に戻って下さいと声を張り上げているが、みんなの野次馬本能の前にはたじたじのようだ。あんたらのやってることは正しい、でも邪魔だ。
「はいどいて下さい。どいて下さい」
 担架を持った男性警官の声で、野次馬は心持ち程度の道をあけ、静まり返る。タンカーには、立ったら腰くらいまであるんじゃないかという長い髪を持った女子生徒が、シーツから首だけを出して……たぶん眠っている。あれ? この人どこかで見たことあるんだけど。誰だったっけ?
「上島先輩!」
「えっ、副会長?」
 拓哉とあたしの声にも先輩は目覚めることもなく、階段を下りていった。
 その時、一時間目開始のチャイムが寂しそうに鳴り響いた。

 教室に戻ると、上島先輩の話題で持ちきりだった。
「やはり外部犯ってことはないですよね」
「どこにわざわざ四階の人を狙う必要があるのよ」
 白の言葉に、あたしは応えた。
 白とは、あたしの隣の席の山本白のことである。顔は白雪姫のように誰が仕組んだかとっても白く、胸の辺りまで伸ばした真っ黒な髪と程良く対比している。体は小柄で、一見病気がちに見えなくもないが、女の子すらもはっとさせる笑顔のキープで、それを見事に打ち消している。
「でしたら、本当に副会長を狙った殺人事件ということですの!」
「おい、上島先輩はそんな恨まれる人じゃない」
 突然後ろの席の拓哉から声がかかる。
「第一、上島先輩は副会長の信任投票の時も信任六二七、不信任三で、先輩後輩からも慕われてるし、まさか恨まれることは絶対ない!」
 拓哉があまりにも声を張り上げて言うものだから、あたしと白は目が点になる。そしたらそれを地獄耳で効いていたトールブルーこと、青高強がひょっこり顔を出し、
「なにムキになってんだよ、拓哉。もしかして上島先輩って、拓哉の……いいひとだったりとかぁ?」
「ふーん。拓哉もちゃんと男の子してんだ。でも年上趣味だったなんて……意外」
 手を大きく振って否定しつつも顔が赤いとこが怪しい。
「なにっ。拓哉がお姉様好きだったとぉ」
 突然前の席のリーちょんこと、柴通梨奈が大きな声出すもんで、みんなが顔が赤くなった拓哉に注目している。リーちょんなんて報道部の記事にでもするつもりか、すでにメモとペンを手にしている。
「で、拓哉。先輩とはどこまで行ったの? もしかしてもう壁新聞に書けないことぐらいにまでいったとか?」
「リーちょんまで、やめてくれ」
 リーちょんのとどめの一言に、ついに拓哉は離脱サインの居眠りモードに入った。
 リーちょんは中学生とは思えない、もうどっかで働いてもいいくらいの色気のある笑みを浮かべながら、ペンで拓哉の頭を叩いた。
 あたしの聞いた噂では、リーちょんと拓哉はつきあってるとかだったんだけどなぁ。
「冗談はさておき、拓哉は知っていることを全部はきな」
 どうやら、リーちょんは拓哉は誰が好きとかに興味のあるわけでなく、上島先輩について記事が書きたいらしい。残念ながらあたしは上島先輩と生徒会には、全く関わりがないんだよな。
 拓哉はむくっと起きて
「上島先輩は頑張り屋だからな。毎日七時くらいまで残って仕事してたそうだ」
「あの、生徒会の仕事って一体なんですの?」
 あっ、白、それあたしも気になった。
「多くは、各クラスの予算上げの交渉だな。学校祭に回された資金は全て生徒会が管理していて、各クラス各部活に配った資金以外にいくらかは余らしてあるんだ。それを、どこの資金上げに使うか考えるのが、生徒会の主な仕事だ」
「えらく事務的ねぇ。で、予算上げの交渉の成功率は?」
「今のところ、〇%」
 アハハ、リーちょんはこれまで記事にするつもりだ。
「でもそれは一人じゃできないでしょ。先輩はいつも残って何をしていたの?」
「学校祭のパンフ」
 それなら一人でもできるな。
「で、愛する先輩についてあとなに知ってんの?」
「だからやめろ、その形容詞は。あとは、校門が開く七時きっかりに登校して、校門が閉まる七時きっかりに下校していたそうだ」
「そんでもって、拓哉は遅刻常習犯で、昨日は何時に帰ったの?」
「五時だ」
「早いのね」
 昨日は塾があったなどと言い訳してから、拓哉は机に突っ伏した。また離脱モードのようだ。
「昨日なら親から学校に電話があるだろうし、犯行時刻は今日の朝でしょうね」
 そういいながら、リーちょんは報道部のみに許可されているワープロを取り出し、なにやら打ち始めた。
 その画面をあたしとトールブルーと白が覗き込む。さっきからあたしら三人はほとんど喋ってないけど、野次馬本能だけは旺盛だ。

 生徒会副会長上島琉美刺傷事件

「上島先輩、どんな様子だったか分かるだけ上げてみて」
「あっ、肩口に黒い丸のような傷が二つありました」
 白の言葉に、あたしの歯車が音を立てて一つ空回りする。
 そろそろ、あたしについて白状するべきだろうな。

 中世ヨーロッパ。民衆は絶対王政の下、次々に戦争へと借り出されていった。町から人と物が失われ、多くの街が潰れていった。空腹に満ちた民衆達は、もっとも楽に、身近にある物から栄養をとる方法をあみ出した。
 もっとも原始的な方法。それが吸血、吸血鬼と呼ばれる人間の始まりである。
 しかしそれが歴史の表沙汰にならず、伝説に尽きてしまったのは、彼らの功績である。吸血鬼を倒すために組まれた組織、それが岩山楓の先祖である。そして、楓自身は吸血鬼を倒す術を親から教えられていた。

 そう。あの方にある黒い丸のような二つの傷、これこそが吸血鬼に血を吸われたという、証拠の一つでもあるのだ。それと同時にそれは死を意味することをあたしはよく知っている。
 心の中に、ぽっかりと空間が空いたような気がした。
 学校の生徒や教師の中に、吸血鬼がいるのだろうか。だったら、あたしは彼(彼女)を殺さなければならなくなる。
 初めて吸血鬼を殺したのは去年のこと。それからあたしは一週間眠れなくて、結局病院に運ばれたんだ。
 それをまた、やらなければならない。しかも今度は赤の他人でなく友達を殺さなければならないかもしれない。
「ねぇ」
「ん? なに、白」
「どうしましたの、そんなに切ない顔して」
「えっ、あっ、ちょっとね」
 心の不安が、顔にまで現れていたみたい。
「何か悩み事があったら、相談してくださいね」
「うん」
 といっても、あたしの心の不安はどんどん大きくなるばかり。

 友達を殺さなければならない……
 仲間を殺さなければならない……
 恋人を殺さなければならない……
 ならない……

・犯行時刻
 推定、午前六時から八時の間
情報提供 睦月拓哉
・犯行動機
 犯行動機は上島氏の人柄により、上島氏を直接狙った犯行ではないと思われる。
 よって、無差別犯行の可能性が高い。
情報提供 睦月拓哉

「無差別犯行か」
 あたしはなにとなく呟いた。吸血するなら、誰だっていいんだし、その可能性も高いな。
「おい」
 寝ていたと思っていた拓哉が突然声を発し、あたしを含む四人はびくっと肩を振るわせる。
「今、一人の人間が瀕死なんだぞ。なのによくそんなに騒げるな」
 ………
 拓哉にはそう写ったかもしれない。でも、あたしは先輩を殺した人間、いや吸血鬼を、殺さなければならないんだよ。

 あたしは教室掃除を終わらせ、図書室に向かうところ。
 拓哉のあの一言から、上島先輩の話はタブーになってしまい、あれ以上のことなは何もわからなかった。
 授業が終わり、帰り支度をしているときに、白から図書室に来るよう頼まれた。白は今週図書委員の当番らしく、放課後の図書室は誰も来てくれなくてすっごい暇らしい。そこであたしに話し相手になってほしいとのこと。
 そういや、リーちょんは拓哉に一緒に帰らないとか誘って、拓哉は照れながらもOKしていたな。拓哉の本命はリーちょんか上島先輩なのか気になるけど、やっぱ今は誰が吸血鬼なのかが気になる。白に、黒い点のような傷が本当に吸血鬼のなのか確かめてみよう。別物だったらそれでおしまいということで。
 図書室は体育館校舎の一階にあり、教室からはそれなりに距離がある。こんなに遠かったらわざわざ誰も来ないはずだ。うん。
「白ちゃん」
 あたしはそう言いながら、図書室を覗き込んだ。
 扉は半開きだった。電気はついていなく、カーテンも全部閉めてあって、結構薄暗い。
 いないのかなと思ったが、あたしは中へと足を踏み入れた。
 いつもだったら返事してくれるのに、今日は全く反応がない。もしかして、あたしを驚かそうとしているのかな。
「ん?」
 鼻孔をつんと刺す臭い。軽い嘔吐感に襲われる。頭の中を悪い予感が通り過ぎる。
「白!」
 あたしは図書室の奥へと駆け込む。奥のカウンターの横の書棚、そこに白はいた。自分の血に体を染められていた白が。



 友達を失った。
 悲鳴を上げると同時にその思いが体を締めあげ、動けなくしていた。
「どうした!」
 扉が激しく開かれ、拓哉は駆け込んできた。荒れ果てた白を見て、クッと一声上げて白に掴みかかる。
「運ぶぞ」
「えっ」
「早く。保健室に運ぶぞ」
「だって、もう……白はもう死んでる」
「勝手にそう決めつけるな。大切な友達だろ」
「……うん」
 あたしは拓哉に促されて、白を保健室へと運んだ。

 あれから白は救急車で病院へと運ばれた。
 白がどうなったか知らないまま、次の日、あたしはいつも通り登校した。
 しかし、あたしの隣の席に白はの姿はなく、ただただ虚空をたたえている。
 本令のチャイムが鳴り、担任の黒木先生が入ってくる。委員長の葉山が号令をかける。黒木先生は一つ咳払いをして、
「松本君のことだが、一週間は病院で休むそうだ。けがの具合はそんなにひどくないらしく、本人はぴんぴんしている」
「………」
 喜びより、あたしには驚きの方を強く覚えた。そして最後には呆れてしまった。ハハハ、吸血鬼事件じゃなかったのね。
「副会長の上島君も大丈夫のようだ。松本君と同じ病院で休んでいる」
 なんか拍子抜けしちゃうわね。

 結局、一日に二度も刺傷事件があったということで、その日はホームルームのあと下校になった。あたしとリーちょんとトールブルーの三人は、先生の了承を得て、白と上島先輩のお見舞いに行くことになった。
「345番の部屋と」
「あそこだ」
 カウンターで案内されたその部屋の扉には、確かに白と上島先輩の名前が書かれていた。
 リーちょんが扉をノックして開くと、そこでは白と上島先輩とそのお見舞いか生徒会の方々がお喋りに花を咲かせていた。もちろん、その中に拓哉はいた。
「なんだ、元気そうじゃん」
「おかげさまで」
 どうやら、もう生徒会の方々はあたし達と入れ違いに出ていくようだ。
「じゃ、琉美先輩と白ちゃん。お元気で」
「じゃあね。富ちゃん。パンフよろしく」
 生徒会の方々に混じって出ていこうとする拓哉(って、拓哉も生徒会役員だけど)をあたしはひっつかむ。
「ハイハイ、あんたは出ていかない。あんたはここに残るの」
「ああ、片桐先輩ぃ」
 と情けない声を上げつつもどうやら拓哉はおいてかれたようだ。
「で、白。傷の方はどう?」
「まだジンジン痛んで。夜も快く眠れない状況ですわ」
 リーちょんたら、もうメモってる。やっぱ記事にするんだ。
「お大事に。上島先輩は?」
「あたしもよ」
 しばらくなんでもないことをお喋りした。
 病院なのに、雰囲気は妙に明るかった。みんなそう心がけているんだろう。
 白は普通を振る舞いつつも、何者かに刺されたという言いしれぬ恐怖が体を覆っているに違いない。
 白も上島先輩も強いな。あたしも強くならなきゃ。
 白はお見舞いの広島の新名物、ぷよまんという饅頭を出してきて、みんなで食べた。
 食べ終わったころ、拓哉は家庭教師、トールブルーは塾とかで、先に帰るようだ。
 あたしは残って、リーちょんの取材に付き合うことにした。
「突然本題から行くけど、先輩達を襲った犯人って誰だかわかる?」
 すると、白と上島先輩の二人は考え込むように向かい合い、そして白が答えた。
「確かに犯人の顔は見たんです。ちゃんと見ていたはずなのに、どうやっても思い出せないんです」
「上島先輩もですか?」
 憂鬱な表情で、首を縦に振った。
「本当に、思い出せないの? せめて、性別だけでも」
 二人は揃って首を横に振った。
「警察の方々は、わたし達が犯人が学校の誰かであると知っているから、守ろうとして覚えていないなんて言うと思われている見たいなんです」
「本当に覚えていないの?」
 リーちょんが念を押す。
「だから覚えていません!」
 白がちょっと声を張り上げるもんで、リーちょんはバツが悪そうにシャーペンで鼻をつついたあと、また向き直る。
「じゃあ、一応確認しとくけど。犯行時刻は上島先輩が昨日の朝、白ちゃんは昨日の放課後でいいわね」
 白は首を縦に振ったが、でも上島先輩は
「ちがう。昨日の朝じゃない。一昨日の夜だった」
「えっ、だったら心配して親から学校に連絡があるんじゃ」
「両親は今、ギリシャに旅行に行っているから、もしやそれを狙って」
「わたしも、図書室で一人になることは明白でした」
「計画的犯行?」
 リーちょんがささやく。私達の喉はゴクリという音さえ合唱してしまう。
「やめてよ。そういうの。学校に吸血鬼がいるってこと」
 白は言ってしまってから、しまったとばかりに口を押さえた。
「どういうこと? それ」
 上島先輩は決したように白にうなずきかけ、
「吸血鬼。奴はそう名のった」
 あたしはほくそほほえみたくなったのを、なんとか抑えた。あたしはその言葉を聞きたくない、そのために、ここに残っていたような気がする。ちがう。あたしはその言葉を聞きたかったのかもしれない。
 これで、人殺しをしなければならないのは免れなさそうだ。まさに、死刑執行人が法務大臣から死刑の承認を受けて、今から行わなければならない、そんな気持ち。日本の死刑だったら、三人で同時にスイッチを押すと、首吊り台が下がるという仕組みになっているということを聞いたことがある。しかし、今のあたしには三人で押したという甘えは許されない。基本的に一人で執行するもので、そんな術をあたしは持っちゃっている。
「それ、間違いないの? 犯人の顔は覚えてないんじゃなかったの?」
「先輩もわたしも、それだけは覚えているんです」
「不思議ねぇ」
 リーちょんはなんでもないかのように言った。
「だったら、もし計画的犯行だとしたら、上島先輩の両親が旅行に行ってるって知ってる人ってどのくらいいます?」
「両親が誰に喋ったのかわからないけど、あたしは生徒会のみんなと、富ちゃん」
「富山智恵ちゃんのこと?」
「そう」
「白の方は?」
「図書委員の方々と、楓くらいじゃないですか」
「そっか……」

「ねっ、リーちょんは誰が犯人だと思うの」
 結局あれ以上話が進まず、今はリーちょんと病院を出たバスの中。
「わからない。校内の人ではないことを祈りたいけど、もう確実ね」
「なんで?」
「だって、自分は吸血鬼だって名のるバカはせいぜいが中学生でしょうが」
「えっ? 吸血鬼が犯人だと?」
「んなわけないでしょ。きっと愉快犯よ」
「そっか……」
 愉快犯。ただの愉快犯であることを祈りたいが、それを許してはくれなさそうだ。
「そーいう楓はどう思ってんの」
 いいづらかったが、思い切っていって見ることにした。
「白が襲われたとき、拓哉は駆けつけたって言ってたけど、犯人は戻るって言うし」
「拓哉はそれまであたしといて、楓の声を聞いて一目散に駆けつけたのよ。そんな拓哉を疑うって、薄情じゃない」
「ゴメン……忘れて」
「あのとき、つい嫉妬しちゃったじゃない」
「えっ!」
「ゴメン、忘れて」

 夕食のあと、自分お部屋に戻ると、あたしはベットに寝っ転がった。なんかヤダ。心がもやもやしてる。
 お母さんに話しても「楓も一人前に狩りをおやりなさい」「吸血鬼は友達という仮面を被っているに過ぎないのよ」とあたしにキツクあたる。あたしもそう、あたし自身に言い聞かせてるつもりなんだけど、どうにもならない。友達という仮面でも、友達という仮面でも、その仮面を被っている以上、そいつは友達なんだ。
 手元の棚から、クッキーの箱を取り出し、中を開ける。中にはたくさんのビー玉。その一つを取り出し、天井に向かって投げる。そのビー玉を見つめながら、手を左右に開き、そして前で交差させる。たったそれだけで、ビー玉は二つに割れる。実に綺麗な切り口を残して。
 あたしの指には五歳のころからずっと、目には見えないほど細く、ダイヤモンドのように固い三本の鋼糸が絡みあっている。この糸で今ビー玉でやったみたいに吸血鬼を、人を締めつければ、豆腐を切るかのようにあっけなく殺すことができる。
 たまにあたしは歩いていて思う。この同じ道を歩いている見ず知らずの人々。半径20メートル以内にいる約百人の命を、あたしはたった二秒間で魔法のように殺すことができちゃう。
 恐い、恐い、恐い。
 いつかあたしが理性を失い、一万という人間をたった一晩にして殺してしまうんじゃないか。
 恐い、恐い、恐い。
 この恐怖に耐えられなくなったあたし自身の首を、それこそ豆腐のように切ってしまうんじゃないか。
 恐い、恐い、恐い。
 吸血鬼と間違えて一般人を殺し、それをトラウマにあたし自身の腕を切り落としてしまうんじゃないか。
 恐怖、恐怖、恐怖。
 友達の仮面を被った吸血鬼を殺したあとの、教室の空いた机に飾られた花が。
 恐怖、恐怖、恐怖。
 友達があたしに対して命ごいをしているのに、薄笑いを浮かべて手を動かし続けるあたしが。
 恐怖、恐怖、恐怖。
 その友達の葬式に出席しながらも、一人泣くことのできないあたしが。
 恐怖。
 恐い。
 恐怖。
 恐い。
 恐怖。
 恐い。
 恐怖。
 恐い。
 恐怖。
 コワイ……
 もうこの糸はあたしの一部で、離れることなどもうできないんだ。
 ふと、手首に目が止まる。そこには細いカッターで切ったような浅い、いくつか深い傷がいくつもいくつも走っている。
 この両親から生まれてきたことをどれだけ後悔しただろうか。
 泣いたって何も変わらないってわかっているのに、涙は止まらない。

 次の日の朝のこと。
 こんな憂鬱な朝は今までになかったというくらい、憂鬱だった。それを励ますのか、あざけ笑うのか知らないけど……朝、下駄箱の戸を開けると、上履きと同居している一つの封筒。『岩山さんへ』と男子の無理に角張った文字。
 即刻学生カバンに突っ込み、即刻人のいなそうな校舎裏へ……なんで男子野球部はこんな所でお着替えしてんだよぉ。
 結局朝は中を見るチャンスを逃し、家に帰って開けてみることにした。その間の授業、初めてのらぶれたーにウレシイだのハズカシイだのきゃははははって感じで全然授業が頭に入らなかった。
 放課後、吸血鬼の事なんて忘れて一目散に家に帰る。
 息をのみ、封筒にはさみを入れる。身長にはさみを進め、中の質素な手紙を取り出す。
 どれどれ、なにが書いてあるのよ。

 岩山さんへ
 僕は岩山さんに対しての特別な感情のせいで夜もまともに眠れない。
 それを一文字の言葉で表すのは味気ないと思うので、明日直接会って岩山さんに二つの音で伝えたい

そんなようで、この時代遅れの臭さがたまんないと思いながらも、明日の午後の近くの神社裏を想像してしまうあたし。きゃぁ。
 もうなんか、吸血鬼なんてどうでもいいって感じ。あたしも普通の女の子として青春を謳歌したいのだぁぁぁぁぁ。

   三

 目覚めると、そこはいつものベッドではなかった。消毒液の臭い、白い天井。
 どうやら、あたしは病院にいるらしい。
「やっと起きたの?」
 母が心配そうに、あたしの顔を覗き込む。
「よかった。楓が死んでなくて。母さん心配したのよ」
「は?」
 向かいのベットには、白が寝ている。その白の隣には上島先輩が。
 もう、夜十二時を過ぎていた。
 あたしはやっと、今日の出来事思い出した。

 神社裏。
 ここは彼氏と金魚すくいをしたり、リンゴアメを食べたりしながら歩いた道の終着点。
 たいていなんか竹林になってて、薄暗くて、お祭りの活気が微かに響く所。ロマンチックで、自分の思いをうち明けたり、キスとかしちゃったりするには絶好の場所……のはずだけど、九月も終わりのくせに蝉の声はけたたましく、しかもコオロギすらまだ鳴かない、日の高い四時のこと。お祭りもなにもないのに浴衣着るわけもないし。あたしはその男のセンスを疑ったよ。
 それにしても、あたしによるも眠れなくなるほどゾッコンの男って誰だろう。あたしのクラスに目の下に隈のある男子っていたっけ? いないよな。もしかして年上の先輩? あははのはん♪
「いっ」
 そいつはいきなりあたしの肩を掴んだ。
 まっ、まさか。そいつはちょっと早いんじゃないの。いくらここが人気のないところだからって。
 さすがに後ろから体重をかけられ、ひざかっくんされ、これは危ないと、鋼糸を使おうと手を伸ばす。しかし、あたしは前の敵に対しての練習は山ほどしてきたが、姿の見えない後ろの敵への使い方などあたしは知らない。鋼糸は前方にあった木を二本ばかし切り倒すだけ。
「ちょっと」
 でも、そいつはもっとタチが悪かった。あたしの口元に、きついミント系の臭いのするハンカチを押しつけ……だんだん意識が薄れていく。これじゃオヨメにいけないじゃないか。

 手で頭を触り、次に胸へ、おなかへ、そして足へ。肩から胸にかけて包帯が巻かれている。
 母はあたしの耳元に口をもっていき、
「吸血鬼狩りが吸血に吸血されるとはねぇ」
「ハハハ」
 もう笑うしかなかった。
 でも、はっきりとしたことがある。吸血鬼は男子であること。それと、学校の誰かということ。あと、相手が強姦目的でなく吸血目的であったこともね。
「間違って吸血鬼の前で鋼糸使ったりしてないでしょうね」
「あっ」
「楓、もしかして正体ばれたの」
「そうみたい」
「でも、使っていても楓は殺されていない。なら、ばれてないんじゃないの?」
「そうだといいけど」

「助けてくれた」
 そう考えられなくもないんじゃないかな。
 吸血鬼にとってあたしは敵で、実際にあたしは吸血鬼を殺そうと鋼糸を使った。でも、吸血鬼はあたしを逃した。血を吸っただけ。死ぬほど吸いすぎてもいない。
「なぜ?」
 吸血鬼は人が死ぬまで血を吸うことができなくなったから。だから上島先輩と白も生きてる。
「ちがう」
 殺さずにすむ能力を手に入れたから。ほら、白と上島先輩が犯人の顔を思い出せないみたいに、思い出させなくする力を手に入れたから、一切の殺しを止めた。
「やっぱりちがう」
 あたしは吸血鬼たちを殺す人なんだよ。
 自分は銃を持っていて、相手は幅広のナイフを持って自分に襲いかかってきた。だったら別に銃を撃ったっていいじゃん。
 そうだよ、鋼糸という銃を持った敵を捕らえたんだよ。なんで、あたしを殺さないの。
 そりゃ、生きてるって素晴らしいよ。楽しいよ。——うれしいよ。
 でも、吸血鬼にとってあたしを生かしておく価値はないはず。それよりもっと不利益になる。
 なのに、今あたしは病院のベッドの上で。こんな事を考えてる。
 助けてもらった。
「だからなぜ?」
 …………
「もしかして、あたしと同じ?」
 殺さなければならない吸血鬼が友達の一人だったから、あたしは狩りをするか迷った。
「吸血鬼も迷ってる?」
 あたしも、吸血鬼からしたら友達なんだ。とりあえず偽装ラブレターで呼び出したけど、結局殺すことはできなかった。
「意味ないじゃん」
 あたし、吸血鬼狩りは吸血鬼を殺せなくて、吸血鬼はあたし、吸血鬼狩りを殺せない。だったら和平解決じゃないの。
「ちがう」
 吸血鬼はもともと大きなリスクを背負っている。吸血しなければ生きていけないというリスクを。
「そんな人間、人間じゃない」
 そう思いたい。そう思えば簡単に殺せるのに。でもあたしはそう思うことができない。
 毎日普通におしゃべりして、ふざけあって、笑いあって。そんな友達を殺さなければならないなんて。
 そういえば、ちょっと前に『バトルロワイアル』って映画があったよね。R−15指定であたしは見られなかったけど、ニュースであたし達と同じ中学生同士が殺し合う話だって聞いた。
 あたしはあの宣伝文句を見たとき、ぞくっとしたね。
「友達殺したことある?」
 もうすぐあたしは、首を縦に振るような人間になるのかもしれない。ううん、なるんだ。友達というかけがえのないものを自分で壊して。
「その時、あたしは人間でなくなっちゃう」
 理性を失って、吸血鬼と知ったら、友達でも、親族でも、赤ちゃんでも、恋人でも……殺しちゃうような人間になっちゃうのか。
 吸血鬼さえいなければ……
 この親にさえ生まれなければ……
 あたしがこんな血も涙もないような奴でも吸血鬼は多せけてくれた。
「友達という理由だけで」
 吸血鬼 = 殺す
 友達 = 守る
 吸血鬼 + 友達 = 殺す + 守る
「友達を殺す理由があればいい」
 あたしの友達を殺す理由ってなに?
「吸血鬼だから」
 それだけじゃ足りないような気がする。
「他の友達を吸血鬼の被害から守るため」
 そうだ。あたしは吸血鬼から人間を守る使命を背負っているんだ。
「それでいいんだよね」
——そうですわ。
 その答えを、向かいのベッドで寝ている白に求めることはできないんだ。

 三日後白は退院し、あたしにはさらに三日間の時間があった。
 傷はまだジンジン痛むし、血が少ないせいか、たまにクラッてくることがある。
「吸血鬼を殺す」
 今は確固たる思いがある。
「友達であろうと……」
 殺す。あたしはまだ最後のこの言葉が、すっと出せないでいる。
 全く、どうしたことかな。
 トン
 あたしの投げたスーパーボールが地面ではずみ、再び地面につくまでに四散する。
 本番も、この調子であれば二秒ですむはずなのだ。あたしは三日間、移してもらった個室で技を磨くことに集中した。
「これじゃ殺人機械だ。生まれたときからそうだったんだ」
 このつぶやきは、今日でもう何度目だろう。
 たぶん看護婦さんの間じゃ、異常な子とか精神科にまわした方がいいとか言われてるんだろうな。しゅん……



 退院翌日。あたしはいつもより早く登校した。
 土間で靴を履き替えたところで、カバンから一つの手紙を取り出し、吸血鬼の靴箱に入れる。
 もしこれで相手が来なければ、自分は吸血鬼なので恐くていけませんと言っているようなものだし、相手は絶対来るという自身があった。
 靴箱の戸を閉める。これがあたしの宣戦布告だ。ラブレターの形をした。
 本当に彼氏に告白するように、胸がきゅんとしてくる。それが恋心だったらかわいいのに、戦争におもむく少女じゃな。
 様になってないよ。

 翌日、学校からちょっと離れた林の中。
 手紙の内容は完璧なラブレターでも、これじゃあたしもムードもなにもないな。
 そして聞こえてくる足音。コンクリートのような固い音ではなく、枯れ葉を踏む秋らしさを感じさせる音。しかし、今にはギロチン台に足を進める音のように、重々しく聞こえる。
 そして時はきた。
「拓哉」
 睦月拓哉。そう、あたしが吸血鬼であると断定した人物。
「ごめんなさい、オレにはリーちょんがいるんだなんてネタはやめてよ」
 沈黙が世界を制する。拓哉はいつものちょっととぼけた顔に、あたしは自信に満ちた瞳で睨みつける。
 あれから一週間で、夏らしさを残す蝉の声はなくなり、すっかり秋らしくなった。秋風があたしと拓哉を包み込む。
 突然、拓哉は背を向けて逃げ出した。
「コラッ」
 あたしがなでるように手を動かすと、拓哉の周りの木々は綺麗な切り口を残して倒れ、拓哉の逃走を邪魔する。
「なぁ。おまえはなにをしたいんだ。告白にしては荒っぽいんじゃないのか」
 目が滲んでくる。あたし、いつのまにか泣いてるんだ。
「拓哉ぐらいなのよ。上島先輩と白に吸血できたのは」
 拓哉は黙ったままだった。それが自分が吸血鬼だと言っているようで、あたしはやりきれない思いが込み上げてくる。

 吸血鬼が白を吸血したあの日、吸血鬼は白が図書室で一人になることを知っていた。なぜなら拓哉はあたしと白の席のご近所。だから聞いていたんでしょ。あたしと白がその事を話していたのを。
 まだあるわ。白が吸血されていたのを見て、あたしは悲鳴を上げた。そして拓哉が駆けつけてくれた。でも、あたしの悲鳴で駆けつけてくれるなら、慌ててもっと足音があったりするんじゃないの。ほんとは図書室のどっかに隠れてたんでしょ。扉の音しかしなかったもん。
 それに拓哉は一目散に白を担いで、保健室に運んでいたでしょ。普通なら人を呼んで来るんじゃないの。それは拓哉が浴びた白の返り血を隠すためなんでしょ。それ以外考えられない。
 上島先輩のことも。拓哉は生徒会書記だし、知ってたんでしょ。上島先輩が遅くまで一人残っていたこと。
 証拠はあるかって? あるわよ。
 それはね……それはね……

「もういい」
 拓哉は突然あたしを遮った。
 あたし、実はネタ切れしたとこだったり。
 でも、とうとう認めちゃうの。
 だったらあたしは拓哉を殺さなくてはならなくなる。
 心臓が高鳴る。
 友達を吸血鬼の恐怖から守るため。それがあたしの免罪符。
 あたしは殺人、いや、吸血鬼を退治するんだっ。
 バサッ
「あっ」
 拓哉の背後には、黒い一対の……翼。
 伸びていく、吸血のための一対の牙。
 それは拓哉が吸血鬼であると自白した瞬間だった。
 あたしに、殺してくれとでも言っているように。
 …………
 …………
 …………
 拓哉を、殺さなきゃ。あたしが手を動かすと同時に、拓哉も行動を開始した。
 木々に張り巡らされた鋼糸が拓哉を殺すはずだった。しかし、その鋼糸の網の中を、翼を利用したスピードと方向転換でするりと通り抜ける。
「えっ」
 あたしは驚きを隠せなかった。
 前の吸血鬼はなんの抵抗もなくあたしに殺された。でも、今の吸血鬼、拓哉は違う。上下左右、まばら張り巡らされた鋼糸。吸血鬼狩りにも全く見えないはずなのに、目で『見て』拓哉は動いていた。鋼糸が拓哉を真っ二つに裂こうと上から降りてくると、翼で風を起こして移動し、確実に避けている。
 あたしの力が、全然拓哉に通用していない。
 でも、あたしは手を動かし続けた。
 ジジッ
 拓哉の服の端が切り落ちる。
 でも、それだけだった。
 汗があたしの額を流れ落ちる。
「手こずっているようだな」
 突然の声の主は巧みに指、腕を動かし、鋼糸を操る。
「トールブルー拓哉が」
「どこ見てんの。オレは上をキープするから楓は下をキープして」
「うん!」
 トールブルーも吸血鬼狩りだったのだ。
 あたしの中に一つの思いが湧いてくる。
 もう、吸血鬼を殺したというリスクを一人で背負わなくていいんだ。
 二人分の鋼糸が拓哉を襲う。それでも拓哉は巧みにそれを避け続ける。本来ならばあたしの糸とトールブルーの糸が絡んで、二人での狩りは御法度なのである。でも、トールブルーの指示により、張る場所を分けたので絡み合うことはないのだ。
 拓哉がほえた。
「オレが、吸血鬼がなにをしたっていうんだよ!」
「おまえは、友達の血を平気な顔で吸ったんだろ。おびえきった白と先輩の血を!」
「だから今のあたしたちには、拓哉を殺す理由がちゃんとある」
 拓哉は体を動かしたまま、考え込むように顔をゆがめ、
「そうなのか」
 拓哉がそう言ったとき、一瞬拓哉動きが止まった。それをすかさず、あたしは鋼糸を操る。
 シュバリ
 汚い音を立てて、まるで野菜を包丁で切るように、あっさりと拓哉の腕は落ちた。
「きゃ」
 それを見て、あたしは一瞬動揺してしまう。それが一人の命を救った。
「いたっ」
 あたしの鋼糸とトールブルーの鋼糸がひっかっかり、あたしの鋼糸は人差し指に数ミリ食い込み、切り裂いた。
 トールブルーは糸を引き、引っかかりは取れたけど、その鋼糸が引かれた時を狙って、拓哉は大きく翼を広げた。そして、翼を小さくはばたかせる。
「拓哉ッ」
「オレはおまえ、楓は吸血していないからな」
「どういうことよ」
 そう言い残して、血潮を撒き散らしながら、拓哉は翼を大きく羽ばたかせた。それを呆然と見届けることしかできないあたしとトールブルー。拓哉の姿は夕闇に吸い込まれていく。
 そして、あたしとトールブルーの前には、あたしによって切り落とされた左腕が、血だまりを作りながら転がっていた。
 あたしとトールブルーは日が沈むまで動けなかった。



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